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東京から来たミュータント~きたやまおさむが出会った頃の加藤和彦

2023.10.16

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ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が、当時は誰も思いつかなかったようなナンセンスでコミカルな歌「帰って来たヨッパライ」をつくったことによって、200万枚を軽く超える記録的なヒットを放ったのは20歳のときである。

そこから遡ること2年半前、京都府立医科大学の学生だった北山修は、雑誌「メンズ・クラブ」の読者投稿欄に掲載された、加藤からの呼びかけに目をとめた。

「フォーク・コーラスを作ろう。当方バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ」


北山は、「これだ」と思った。
しかも投稿主の住所を見ると、自宅からは自転車で15分ほどの近距離だった。
そこですぐに自転車に乗ってその家を訪ねてみると、家の中からものすごいく背の高い男が出てきた。
1965年の8月のことだった。

180センチある長身の北山よりもさらに高いその男は、口が重く人見知りする感じがしたという。
最初の出会いの第一印象を、北山はこう述べている。

彼は東京で高校時代を過ごし、父親の仕事の転勤で京都に引っ越してばかりでした。
アイビールックに身を包み、仏教系の龍谷大学に通っているという。
不思議な雰囲気を持つ彼は、まるで”東京から突然やってきたミュータント”といったように、私には印象づけられました。


加藤に会って北山が何よりも驚かされたのは、京都ではなかなか目に出来ない珍しい楽器をたくさん持っているだけでなく、フォークソングについて幅広い知識を有していたことだった。

そして、北山には育った環境がまったく異質だということもわかったという。
高校3年生の時には外国のフォークソング雑誌が書棚に並んでいて、それを熱心に読んでいたという話を聞いた北山は、”東京から突然やってきたミュータント”だと感じたと述べている。

英語の雑誌を高校生が読んでいるとこと自体、北山には考えられないことだった。
親がそういう生活スタイルを許していたということが、ユニークな英才教育だったのではないかとも思ったそうだ。

しかし、自分にも通じるところもあったので、一緒にバンドを組むことにした。

後に推測したことですが、彼が自分の高い身長を持て余していたようです。
体をうまくコントロールすることができない。
自分のサイズにあった服がない。
どこにいても目立つ。
精神と身体のバランスに急激な変化と狂いが訪れる青年期において、彼自身も所在なくていろいろな悩みを抱えていたようです。
私も同様で、青臭い性的コンプレックスや劣等感も一揃いあって、特に心身のまとまりの悪いところで、彼と気が合ったのかもしれません。


加藤はフォークルでの活動とは別に、友人の松山猛と二人で楽しみながら、よく夜中に集まって歌をつくっていた。
やがてフォークル解散後のソロ活動を経て、サディスティック・ミカ・バンドを結成してから、あらため二人はソングライティングのコンビを組むことになる。

しかし「帰ってきたヨッパライ」の原曲は、加藤が松山と二人でつくった楽曲のなかにあったものだった。

1967年にフォークルが解散を決めたとき、北山のアイデアで記念アルバムを作ることになった。
ただし予算は限られているので、ラジオの公開番組に出演した際に録音したテープを、放送局から借りてきて全体の半分はライブ音源で埋めることにした。

スタジオでのレコーディングは経費が高くつくからという理由で、残り半分だけオリジナル曲をレコーディングするつもりだった。
ところがアルバムに入れる曲が足りなくなり、遊びでつくっていた「帰ってきたヨッパライ」の出番がやってくる。

そのユニークな歌のモチーフとなったのは、カントリーの「ヒルビリー天国」という楽曲だった。
ジミー・ロジャースやハンク・ウィリアムス、ジョニー ・ ホートンなど、亡くなったヒルビリーのスターたちに会って、楽しいひとときを過ごしたがそれは夢だったという内容の歌詞だ。


ヒルビリー天国に行った夢を見たの
ああ なんとも美しい光景だった
入り口のドアマンは何とあのカウボーイ
コメディアンで哲学者のウィル・ロジャース


松山がそれを下敷きにして、死んでしまった男が天国から追い返される歌詞を書いた。
当時は急速なモータリゼーションの発達で、交通事故が多発して社会問題になっていたので時代背景に使ったのだ。

そこに北山修がビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」の歌詞をお経にし、木魚をたたきながら唱えるなどのアイデアを加えて、ベーシックな曲の形が出来ていった。

加藤自身は「帰ってきたヨッパライ」について、このように説明している。

テープの早回しは、僕の思いつきだった。その頃はビートルズがインド狂いをしていた時代で、海外ではサイケデリック調の音楽が流行し始めていた。
僕はフォークばかりでなく、あらゆるジャンルのレコードを聞きあさっていたために、そういったエキセントリックな曲の影響受け、独自の音を作りたいと思っていたのだが、アマチュアだから器材がない。
せめてということで、テープを早回してみたのである。
当時シンセサイザーがあったら、きっと使っていただろう。
(「加藤和彦読本第一章 加藤和彦事件簿」音楽出版社)


レコーディングでは北山修のアイデアによって、ちょっととぼけた口調の神様のセリフも吹き込まれた。
そしてビートルズの『リボルバー』に入っていた「グッド・デイ・サンシャイン」のフレーズが、間奏でパロディ的にそのまま引用されている。


アマチュアだったフォークルは1967年10月1日、地元の京都で解散コンサートを開催し、同月25日に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演したのを最後に解散した。

ところがそれから1か月後、解散記念につくったアルバム『ハレンチ(HARENCHI)』のなかから、「帰ってきたヨッパライ」が神戸のラジオ局のディレクターによって発見されて、東京にも飛び火してレコードが大ヒットを記録したのである。

それによって加藤は音楽家として生きていくことが、決定づけられていったのである。

〈参考文献〉 きたやまおさむ『コブのない駱駝』(岩波書店)。本文中に引用した北山修氏の言葉も、同書からの引用です。

なお、本コラムは2017年10月17日に公開されました。







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