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AC/DC〜「どんなパンクスよりも俺たちはタフだった」とマルコム・ヤングは言った

2017.11.23

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認知症を患って2014年9月にバンドから脱退を余儀なくされたマルコム・ヤングが、2017年11月18日に亡くなった。享年64。弟アンガスがお馴染みのスクールボーイ姿でギブソンSGを抱えながらステージを所狭しと動き回る一方で、黙々とグレッチで強靭なリズムを刻んでいた兄マルコムの姿がもう見れないなんて何だか寂しい。

AC/DCを初めて聴くタイミングは、人それぞれだ。70年代からのファンもいれば、80年代の空前のヘヴィメタル/ハードロック(以下HM/HR)ブームで出逢った人もいる。あるいは90年代から、いやゼロ年代からというケースもあるだろう。早い話、時代の入口はどこだっていい。どのアルバムを手に取ってもいい。AC/DCは“変わらない”のだから。

多くのロックバンドが生き残るために、“時代の変化”や“音楽性の追求”や“マーケティング戦略”などの思考に惑わされる中、AC/DCはひたすら“不変”であり続けた。ヴィジュアル重視のHM/HR全盛期でさえ彼らは早弾きなどのパフォーマンスに手を出さなかったし、チャート狙いの甘いバラードも絶対に演らなかった。あくまでもリフ主体のロックンロール。ブルーズに根差したグルーヴに徹底した。

同時期にデビューした多くのHM/HRバンドが解散したり人気を落としていく中、一貫してブレなかった彼らだけはファンを増やし続けた。アルバムセールスは現在まで世界で2億4000万枚以上を記録。2008〜10年のワールドツアーでは167公演・484万人を動員し、興行収入は4億4112万ドルという驚異的な数字を叩き出した。


スコットランドのグラスゴーでヤング家の六男、七男として生まれたマルコム(1953年生まれ)とアンガス(1955年生まれ)。家族の生活は苦しく、1963年にはオーストラリアのシドニーへ移住。二人の兄である五男のジョージ・ヤングはイージービーツという国民的ビートバンドで活躍。1966年にはイギリスで大ヒットを飛ばす。そんな影響もあって弟たちは音楽活動に夢中になった。

1973年にAC/DCを結成。「直流/交流」という意味を持つバンド名は、姉のマーガレットが電化製品に書いてあった文字を見て提案したそうだ。そしてイージービーツにいた兄ジョージとハリー・ヴァンダのプロデュースによって、1975年にアルバム2枚『High Voltage』『T.N.T.』(チャック・ベリーの「School Days」のカバー収録)を国内リリース。

バンドのヴォーカリストは破天荒な魅力を持つボン・スコット。アンガスのステージ衣装に中高時代の制服を提案したのは、またもや姉マーガレット。オーストラリアで人気が出ると、1976年5月には先の2枚を編集したインターナショナル盤『High Voltage』(146位)でイギリスへ逆上陸。同年、ヒプノシスのジャケットデザインでも有名な『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』(後年ブレイク時に再登場して3位)をリリース。

1977年、バンドは再びイギリスをツアー。世界へ向けて走り出した彼らを待っていたのはパンク・ムーヴメントの嵐。デビューしたばかりのAC/DCはその風貌からオールドロック扱いを受ける時もあったらしいが、タフなロックンロールは古くはなく、そしてパンクよりも攻撃的だった。マルコム曰く「どんなパンクスよりも俺たちはタフだった」。同年、傑作『Let There Be Rock』(154位)をリリース(有名なバンドロゴが登場したのもこのアルバムから)。


AC/DCは、ブラック・サバス、レインボー、キッス、エアロスミス、ラッシュ、スティクス、ブルー・オイスター・カルト、REOスピードワゴンといった様々なバンドの前座を経験しながら欧州や北米を駆け巡り、ライヴバンドとして着実に評価を高めていく。1978年の『Powerage』(133位)はそんな頃の重要作。

1979年、バンドはいよいよ世界を獲る時が来た。長年続いたヤング/ヴァンダのプロデュースに代わって、ロバート・ジョン“マット”ランジを新たに起用。『Highway to Hell』は全米チャートを駆け上がる(17位)。しかし、世界ブレイク直前になってまさかの悲劇が。アンガスと並ぶバンドの看板、ボン・スコットが泥酔の末、嘔吐物を詰まらせて亡くなってしまったのだ。33歳の若さだった。

バンドは志半ばで解散するかに思えた。だが彼らは強かった。ブライアン・ジョンソンという強力なヴォーカリストを得て、どこまでも突き進む決意をする。1980年にリリースした『Back in Black』は全英1位・全豪1位・全米4位を記録。遂に世界的ブレイクを果たす。このアルバムは全米だけで2200万以上をセールス。「最も売れたロックアルバム」として知られている。


1981年はその勢いのまま、『For Those About to Rock We Salute You』をリリース。初の全米1位となる。同年には来日公演も実現した。MTV時代に入ると、ロバート・ジョン“マット”ランジの手を離れ、セルフプロデュース体制へ。1983年の『Flick of the Switch』(15位)や1985年の『Fly on the Wall』(32位)は、同時期のLAメタル勢の華やかさに比べると若い視聴者には地味すぎたのかセールス/チャート面では下降する。

1988年は原点回帰ともいうべき、ヤング/ヴァンダのプロデュース『Blow Up Your Video』(12位)で人気を回復。1990年 はブルース・フェアバーンのプロデュース『The Razors Edge』が全米2位。すでにAC/DCは大きな伝説となりつつあった。彼らの熱心なファンでもあったリック・ルービンは、1995年の『Ballbreaker』(4位)をプロデュース。

ゼロ年代がスタートすると、今度はジョージ・ヤングの単独プロデュースで『Stiff Upper Lip』(7位)をリリース(アンガス・ヤングはアルバムジャケットでとうとう銅像になってしまった)。翌年には19年ぶりの来日公演が実現。2003年にはローリング・ストーンズのステージにマルコムとアンガスが飛び入りして、B.B.キングで有名な「Rock Me Baby」をミックやキースと共演するという“歴史的事件”も。


そして2008年には8年ぶりとなる『Black Ice』(1位)で復活。大規模なワールドツアーを行ったのは先に述べた通り。2014年にリリースされた6年ぶりのアルバム『Rock or Bust』(3位)には、脱退したマルコムの後任として、ヤング兄弟の甥であるスティーヴィー・ヤングが加入した。

──駆け足で辿ってきた彼らの足跡。最初のたった一音で、それがAC/DCだと分かる。こんなバンドは世界にどれくらい存在するというのか。目を閉じれば、「難しいこと考えずにヴォリュームを上げてただ楽しめよ」と、微笑んだマルコムの声が聞こえてきそうだ。



*参考/『レコード・コレクターズ』(2008年11月号)
*アルバムの順位は全米ビルボードチャートより

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