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知られざる名曲「丘の上のエンジェル」②~スタンダード・ソングになったゴールデン・カップスの「長い髪の少女」

2023.09.03

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ザ・ゴールデン・カップスは英語の曲しか歌ってこなかったので、ヴォーカリストでリーダーだったデイヴ平尾も、デビュー曲「いとしのジザベル」では戸惑ってしまったそうだ。
だが坂本九の歌唱法を参考にして、なんとか日本語でもスムーズに歌うことが出来た。

しかし1967年6月15日に発売された「いとしのジザベル」は小ヒットにとどまり、前評判が高くて注目されていた割に、今ひとつという結果に終わった。

11月15日に発売されたセカンド・シングルの「銀色のグラス」も同様で、エディ藩の発言によればそこから1年くらいは、”ドサ回り”の日々になったという。

新宿のラ・セーヌとかのジャズ喫茶で演奏してたんだけど、当時バンドなんてのは色物と同じでね、たとえば昼間ゴールデン・カップス、夜ドンキーカルテットとかね(笑)。要するに漫才、バンドって括りが同じだったんだ。だからいじめられるわけよね。それで不良だという感じでつっぱっちゃってさ。だってデビュー・イベントが福岡のキャバレーだよ。


ソウル・ミュージックやブルースを基調とし、アメリカやイギリスの最先端の音楽をやっていたメンバーたちにとって、レコード会社やプロダクションが用意する楽曲は、あまり興味が持てるものではなかったようだ。
その頃のライブではメンバーが気に入っている海外のR&Bやロックを持ち寄り、最新のヒット曲などもレパートリー加えて演奏していた。

1968年の春にメンバーとして加入することになるミッキー吉野はゴールデン・カップスに憧れて、高校時代から可能な限りライブに足を運んでいた若者だった。
レコード・デビューしてからのゴールデン・カップスは本牧のゴールデンカップだけでなく、横浜駅西口にあったジャズ喫茶の「プリンス」や、「横浜ACB」にも出るようになったので、ミッキー吉野はバンド仲間たちとみんなで見に行ったという。

横浜ACBに行くとなぜかキーボードが置いてあって、ボクに”オルガン有るから弾いてけよって言ってくれるんです。多分エディ藩がエーストーンのオルガンを用意してくれてたんじゃないかな。それか、対バンにオルガンが入っていったとかで。カップスはデイヴ平尾もエディ藩もキーボードを弾こうとしたんですよ。デイヴはピアノを習ってたらしいけど、似会わないですよね(笑)、でも結局彼らはキーボードは諦めた。で、ボクにお鉢が回ってくる。


ミッキー吉野はヤングラスカルズの「ムスタング・サリー」やプロコル・ハルムの「青い影」といった、キーボードが不可欠な曲を演奏する時にセッションで加わるようになり、1968年6月から正式メンバーとして加入した。

ちょうどその頃にヒットしていたのが、3枚目のシングル「長い髪の少女」である。
エディ藩はこの曲が3枚目のシングルとして発売された時、事務所からのプレッシャーが強かったことをこう語っている。

「これで売れなかったら、お前らなんてアウトだって言われたんだ、その時。この曲、実を言うと最初は裏面なんだよね。これA面の方がいいんじゃないかと俺が言い出した。インパクトがありそうに感じたんだ」


直感的にそう思ってディレクターに進言した「長い髪の少女」がA面になって発売されると、それまでにない反響があってヒット曲になった。
この曲を歌ったのがヴォーカリストのデイヴ平尾ではなく、ドラムのマモル・マヌーだったのも新鮮であった。


「長い髪の少女」の作詞は橋本淳、作・編曲はデビュー曲からずっと手がけてきた鈴木邦彦である。
わかりやすくて叙情的な歌詞、普遍的で覚えやすいメロディー、そこに12弦ギターやツイン・ヴォーカルでメリハリをつけたアレンジが効果的だった。

橋本淳は友人が住んでいたこともあって、中学生のころから横浜に遊びに行くようになった。
異文化が混じり合って国際色が漂うところに、横浜の魅力を感じていたからだった。

20代前半のころからは米軍キャンプを中心に発展した本牧にも足を運ぶようになり、外国文化の香りを楽しむために東京から文化人や芸能人、遊び人たちが集うような店にも通った。
「長い髪の少女」を書いたころの本牧について、橋本淳は「暗い、尖った、危ない人たちが集まってくるような街だった」と述べている。

この歌にただよっている孤独感や喪失感には、どことなく童謡の『赤い靴』の女の子を彷彿させるところがある。
「横浜の波止場から船に乗って 異人さんに連れられて行っちゃった」と歌われた「赤い靴をはいていた女の子」と、本牧を念頭に置いて橋本淳が書いた長い髪の少女のイメージが重なってくるのは横浜という土地でつながっているからだ。
それに加えて、童謡にも通じるシンプルな楽曲だったことも影響しているだろう。

童謡作家の与田準一を父に持つ橋本淳はザ・タイガースの「僕のマリー」でもそうだったが、しばしば童謡にも通じる簡明でいて奥の深い歌詞を書いていた。

だがゴールデン・カップスの熱心なファンからは、歌謡曲的すぎるという不満の声が寄せられたという。
確かにライブで彼らの本格的なロックやR&Bを聴いていたファンには、物足りない曲だと思われても仕方がない。

しかしこの曲のヒットによって、ゴールデン・カップスの名前はGSファンの若い女の子たちだけでなく、一般の音楽ファンにも広く浸透していった。

やがて楽曲の良さに気づいた多くのシンガーに歌い継がれて、今ではスタンダード・ソングになっている。
エディ藩もまた、ソロになってからも自らのレパートリーに加えて歌い続けている。

<参考文献>
エディ藩の発言は、越谷正義監修『ジャパニーズ・ロック・インタビュー集 時代を築いた20人の言葉』(TOブックス)からの引用、ミッキー吉野の発言は、ミッキー吉野著「ミッキー吉野の人生の友だち」(シンコーミュージックエンタテイメント)からの引用です。






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