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大都会〜クリスタルキングが夢を賭けた楽曲の誕生物語〜

2017.03.12

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あー果てしない 夢を追い続け
あーいつの日か 大空かけめぐる

裏切りの言葉に
故郷を離れ わずかな望みを
求め さすらう俺なのさ
見知らぬ街では 期待と不安が
ひとつになって 過ぎゆく日々などわからない
交わす言葉も寒い この都会
これも運命と 生きてゆくのか
今日と違うはずの 明日へ
Run Away Run Away
今 駆けてゆく


この「大都会」は、1979年11月21日にクリスタルキングがリリースした楽曲で、翌1980年の2月〜3月にかけて連続6週間ヒットチャートの首位を独走しミリオンセラーを記録した。
楽曲誕生のきっかけは、こんなエピソードからだったという。

──1978年の秋、ポプコン本選大会で円広志が「夢想花」でグランプリを獲得。
クリスタルキングは入賞に終わっていた。

「お前ら、九州の男やったらもう一回勝負するよね?」

ポプコンのスタッフによるこのひと言がグランプリを獲って区切りをつけるはずだった彼らに火をつけた。

「次は絶対にグランプリを獲る!」

そう奮起した彼らが作った曲がこの「大都会」だった。

「前回はあの“夢想花”のサビのインパクトに負けただけだから、とにかくサビのフレーズで審査員を驚かせればいい。田中の高音で歌メロが始まればビックリして審査員がマルをつけるやろうって(笑)」


翌1979年秋、宣言どおりに「大都会」はポプコンでグランプリを受賞し、さらに続けて第10回『世界歌謡祭』グランプリも受賞した。
当時、曲のタイトルから東京やニューヨークなどを連想する人が大半だったというが…この作詞を共作した一人でもあるボーカルの田中昌之によれば、歌の舞台は博多(福岡)だったという。
クリスタルキングのメンバーが育った当時の佐世保市から見た福岡市(博多)は、まさに“大都会”だった。
田中はあるインタビューで当時のことをユーモアたっぷりに語っている。

「佐世保から見るととにかく博多は都会だったんです。当時は博多に行こうとすると選別を頂くくらいの距離感があったんですよ(笑)佐世保に比べると道路が広くて足がガクガク震えた記憶があります(笑)」

1970年代前半、ベトナム戦争の真っただ中で彼らは佐世保の米軍キャンプやクラブで米兵などを観客にライブをやっていたという。
そういった環境で腕を磨いた彼らは、1975年に博多のディスコから好待遇で引き抜かれる。
しかし、そこで待ち受けていたのは厳しい現実と葛藤だった…。
当時、彼らは「ポプコンはアマチュアのためのコンテストだから自分達のようにすでに音楽で金を稼いでいる“箱バン”は出場してはいけないものなんだ」と勘違いしていたという。
ある日、関係者から「そんなことはない、君達にもチャンスはある!」と聞き、その誤解が解けたときに彼らは決断をする。

「クリキンで6年間やってきたことにケジメをつけたい!」

彼らは夜の9ステージ(夕方6時から朝4時まで)を休む間もなく働いて金を貯め、少し余裕ができたところでステージ数を少なくしてコンテストのための練習に励んだという。
リーダーの吉崎勝正は当時のことをこう振り返る。

「入賞だけではレコードデビューはできなかった。ならば次は絶対にグランプリを獲得してデビューするんだと。それでみんなと相談して、とにかくクリキンの最大の武器であるツインボーカルを活かすこと、そしてハッタリを利かすために田中の高音を曲の冒頭に持ってこようと…それだけで決めたんです。」

彼らの狙いどおり、当時の担当ディレクターだった萩原暁はこう語っている。

「出だしの田中くんのハイトーン、あれで決まりでした。」


あー果てしない 夢を追い続け
あーいつの日か 大空かけめぐる

裏切りの街でも
俺の心に灯をともす
わずかな愛があればいい
こんな俺でも いつか光をあびながら
きっと笑える日が来るさ

朝やけ静かに空を染めて
輝く陽をうけ 生きてゆくのさ
あふれる熱い心 とき放し
Run Away Run Away
今 駆けてゆく


<参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>




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