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スティーヴィー・ワンダー少年時代〜盲目の少年に神様が与えた才能、若干11歳でモータウンレコードと契約

2019.12.15

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1950年5月13日、彼はミシガン州サギノーで誕生した。
予定よりも6週間早く生まれた彼の体重は4ポンド(200グラム)にも満たず、すぐに保育器に入れられ52日間過ごすこととなる。
退院が近づいた頃、医師は赤ちゃんが光に反応していないことに気がついたという。
それは先天的なものでなく、原因は保育器内で過剰に酸素を吸入したことと判明した。
アメリカでは1940年代後半から1950年代前半にかけて、未熟児が同じような事故で視力をなくした事例が多発していた。
今日(こんにち)未熟児網膜症として知られるこの副作用は、それまで“水晶体後方繊維増殖症”と呼ばれていた。
それは虹彩と網膜をつなぐ血管が異常に増殖して剥がれ、網膜剥離を引き起こす症状だった。


「目が見えないからと言って、心の眼が欠けていることにはならない。」(スティーヴィー・ワンダー)



彼は6人兄弟の3番目の子として生まれた。
母親ルラは、複雑な環境で育った人物で10代の頃に離婚→再婚を経験しており、ギャンブル狂いの夫の強要によって売春宿で働いていたこともあったという。
スティーヴィーが4歳の時に、母ルラは暴力とギャンブルを繰り返す夫に見切りをつけて、子供達を連れてデトロイトに移住する。
古くて狭いアパートで新しい生活を始めたルラは、魚市場で朝4時から働いて生計を立てていた。
スティーヴィーは、幼い頃から(目が見えない分)聴覚の発達と共に、音楽に対して驚異的な才能を発揮していた。
母親は当時の事を鮮明に憶えていた。

「25セント硬貨と10セント硬貨をテーブルに落として、その音の違いを誰よりも早く聞き分けることができました。ラジオで音楽を聴くことが大好きで、スプーンや鍋など、手に触れる物を何でも叩いてリズムを刻むことが好きでした。」


音楽は彼にとって世界とコミュニケーションを取る最高の手段だった。
母親が厚紙でこしらえたドラムキットは(叩き過ぎで)一年しかもたず、翌年にはチャリティー団体からドラムセットをプレゼントされた。
3歳で初めてピアノに触れ、7歳になる頃には自分のピアノを手に入れることとなる。

「当時同じアパートに住んでいた女の人が古いアップライトピアノを持っていたんだ。彼女は故郷のニューオーリンズに戻ることになって“引っ越しで持っていけないから使ってね”と僕にプレゼントしてくれたんだ。」


彼は益々音楽に没頭するようになり、ドラム、ピアノ、そしてベースを大人顔負けに弾きこなしてみせた。
楽器の演奏のみならず、教会の聖歌隊でも歌い、そのうち友達のギタリスト、ジョン・グローヴァーの演奏に合わせてストリートで歌いだす。
そんな中、彼の音楽的才能を最も開花させたのがハーモニカだった。
穴が4つのおもちゃのハーモニカから始まり、叔父からもらったホーナーのクロマティックモデルを弾きこなすようになった彼は、通っていたフィッツジェラルド盲学校のハーモニカバンドの指揮するようにまでなる。
地元のラジオ局WCHBの番組『サンダウン』を聴くのが何よりの楽しみで、彼はその放送を通じて様々なアーティストから刺激と影響を受けたという。

「ジャッキー・ウィルソン、コースターズ、B.B.キング、ボビー・ブラウンなどを夢中になって聴いていたよ。特にジョニー・エースの“Pledging My Love”っていうスローバラードが大好きで真似をして歌っていたよ。あの曲に影響を受けて僕は“You And I”という曲を書いたんだ。」




ハーモニカとボンゴを演奏しながら歌うスティーヴィーと、ジョン・グローヴァー(ギター)の二人は、街角でジャムセッションをしながらラジオで聴いた最新ヒット曲を演奏するようになる。

「あの頃演奏した曲は、後に僕が作る音楽のベースとなった。ジョンと一緒にやっていた曲は今でも憶えているよ。チャートを賑わせていた“Why Do Fool Fall In Love“や“Bad Girl”、そして地元デトロイトのヒーローだったミラクルズの“My Mama Done Told me”、そしてマーヴィン・ゲイの“Sandman”もよく歌ったよ。」





近所中に評判が広まったスティーヴィー&ジョンのコンビは、地元のダンスパーティーやイベントに招かれるようになり、様々な(大人の)ミュージシャンたちと交流をするようになる。

「僕たちは良い時期に良い場所にいたんだ。当時のデトロイトには才能あるミュージシャンがたくさん集まって来ていた。モータウンという新進レコード会社も誕生したばかりで、音楽の街として活気に溢れていたよ。」



ベリー・ゴーディはその時のことを鮮明に憶えているという。

「彼がハーモニカを吹いた瞬間、目を疑ったよ。あの若さであれほどのプレイができるなんて!ドラムもピアノも完璧だった。彼は将来絶対に成功すると確信したよ。」


彼の最初のステージネーム“リトル・スティーヴィー・ワンダー”は、モータウンのA&R/ディレクターであり、後にスティーヴィーの多くの作品に参加したクラレンス・ポールがつけたものであった。
この時の契約内容には、スティーヴィーの年齢を考慮したものとして、印税収入は彼が21歳になるまで基金に蓄えられるという条項があり、それまでは週給として2ドル50セントの支払いであったとされる。
こうしてモータウンに加わったスティーヴィーは、1961年に最初のレコーディングとして「Mother Thank You」を収録するが、結果として、デビューシングルはベリー・ゴーディの手による「I Call It Pretty Music But The Old People Call It The Blues」に変更され、これが1962年の夏に発売された。
それはアメリカの音楽業界でも稀な12歳でのプロデビューだった…

「きっと神様は僕に目でなにかを見るよりもっと特別なことをするために歌と音楽の才能を授けてくれたのだと思います。僕はそのことにとても感謝しています。」(スティーヴィー・ワンダー)



<引用元・参考文献『スティーヴィー・ワンダー ある天才の伝説』スティーヴ・ロッダー (著)大田黒泰之(翻訳)/ブルースインターアクションズ>



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