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衛星放送が映し出したロシアの子供番組と、耳元で鳴ったプロコフィエフ

2018.01.18

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 ニューヨークに移り住んだスティングはその夜、友人の部屋でテレビ画面を眺めていた。コロンビア大学の研究者だったスティングの友人の家では、衛星から発信される電波をキャッチし、世界中のテレビ放送を楽しむことができた。今ではさほど珍しいことではないが、1980年代初頭としては、それは画期的なことだった。そして時代は、新たな冷戦の季節になっていた。
 デタントと呼ばれる緊張緩和を破ったのは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻だった。東西は再び緊張、西側諸国は1980年のモスクワ五輪をボイコットするに至った。ソ連はその報復にと、1984年のロス五輪をボイコットした。
 オリンピックの参加不参加が政治的な道具になってしまうのは、今に始まったことではない。

 それは土曜の夜だった。
 ニューヨークの部屋のテレビは、モスクワの日曜日の朝の子供番組を映し出していた。
「それはとても思慮深く、素敵な番組だった」とスティングは振り返っている。「そして私は思った。ロシア人も、子供たちを愛しているのだ、と」
 それは当たり前といえば、当たり前の話である。誰もが家族を、友人を、愛している。だが、その当たり前の事実をスティングは噛みしめていた。
 


フルシチョフは言った
我々はお前たちを葬り去るだろう
だが私は、この意見に同意できない
それはあまりに馬鹿げている
もし、ロシア人が子供たちを
愛しているのなら


 スティングの耳元で、美しいメロディが聞こえた。プロコフィエフの旋律だった。

 セルゲイ・セルゲーエヴィッチ・プロコフィエフは1891年、帝政ロシアのウクライナで生を受けている。13歳でサンクトペテルブルグ音楽院へ入学後、その才能を磨いていった。
 1914年、プロコフィエフが友人とロンドンへ出かけたのは、23歳の時である。その才能を絶賛された彼が祖国を離れる決意をするのは、その3年後の1917年、ロシアに革命の嵐が起こった時である。
 2月革命から少し日がたった5月初旬、彼はモスクワからシベリア鉄道に乗っている。そして彼はロシアから離れるべく、船に乗る。船が着いた先は、敦賀港であった。
 日本に着いてから2か月ほど、プロコフィエフは日本国内を旅している。東京、横浜、京都、大阪、奈良、箱根、軽井沢。奈良滞在中には、「ピアノ交響曲第3番」などの原型となった「白鍵四重奏曲」のモチーフが書かれ、東京、横浜ではピアノ・リサイタルが開かれている。

 彼がサンフランシスコ行の船に乗ったのは8月上旬のことである。プロコフィエフはその後、パリを拠点に音楽活動を展開していく。だが、郷里への思いが彼をロシアへと連れ戻す。そしてドイツ軍が攻め込んでくる。彼は仲間の芸術家たちと、ナリチクへ、そしてジョージアへと疎開を余儀なくされる。そして終戦。

 スティングは、プロコフィエフのメロディーを下敷きに、自らの思いを歌にしていった。


勝てる戦争などありはしない
私はそんなものは信じない


 ソ連は戦勝国となったはずだった。
 だが、戦後、プロコフィエフに試練が訪れる。彼の作品が「前衛的過ぎる」という理由で批判されたのだ。いわゆるジダーノフ批判である。プロコフィエフだけでなく、ショスタコーヴィッチなども批判の対象となった。芸術家にとって、戦争に勝つことは、表現の自由を失うことだった。

 だが、スティングにとって、問題は表現の自由だけではなかった。


オッペンハイマーの死の玩具から
どうやって子供たちを守るのか


 ロバート・オッペンハイマーは原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」で、指導的役割を果たし、原爆の父と呼ばれた物理学者である。
 だが、スティングが言及したオッペンハイマーもまた、戦争の被害者であった。
 プロコフィエフが日本を訪れていたように、オッペンハイマーもまた、戦後、日本を訪れている。次回は、オッペンハイマーと湯川秀樹の物語である。


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