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ラプソディ・イン・ブルー〜短い生涯で大量の名曲を書き上げたジョージ・ガーシュイン

2018.02.21

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1920〜30年代にポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍し、「アメリカ音楽を作り上げた作曲家」として知られるジョージ・ガーシュイン。「やりたいことが多すぎる」「失敗してる暇はない」「音楽が僕の生きてる証」と本人が言ったように、38年というその短い生涯で大量の名曲を書き上げた。

20世紀を代表する名曲「ラプソディ・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」、オペラ「ポーギーとベス」をはじめ、スタンダードナンバー「バット・ノット・フォー・ミー」「エンブレイサブル・ユー」「ザ・マン・アイ・ラヴ」「ス・ワンダフル」といった元はブロードウェイ・ミュージカルのために作った歌まで、誰もが一度は耳にしたことがあるはずだ。

1898年9月26日、ロシア系ユダヤ人移民の次男としてニューヨークのブルックリンで生まれたジョージ・ガーシュインは、他の神童と違って10歳になるまで音楽に対する興味を表に出さなかった。

ある日のこと。ロウワー・イースト・サイドにあるガーシュイン家のアパートメントに、中古のピアノが運び込まれた。それは長男のアイラにレッスンを受けさせるために母親が注文したものだった。勉強好きなアイラとは対照的に、弟のジョージは外で遊んでばかりいる悪ガキだった。

しかし、ピアノを見たジョージは、手慣れた調子で椅子をクルクル回して高さを調整すると、座って鍵盤の蓋を開け、おもむろに当時の流行歌を見事に弾き始めた。心地よく響くリズミカルな演奏にすっかり感動してしまった母親が不思議に思って尋ねると、近所の友達の家に自動ピアノがあって、ジョージはそれでよく遊んでいたのだという。実は6歳の時から興味を持っていたのだ。兄は自分から辞退し、代わりに弟がレッスンを受けるようになった。

ペニー・アーケイド(遊技場)の外に立って、自動ピアノで演奏されていたルービンシュタインの「へ調のメロディー」を聴いたのがきっかけだった。私はその独特の調べに釘付けになってしまった。今でもこの曲を聴くと、オーバーオールを着て裸足のままアーケイドの外に立ち、夢中になったピアノに耳を傾けていた頃の自分を思い出す。


ジョージはその後、前衛作曲家のチャールズ・ハンビッツァーの教えを受けながらクラシックの道を歩んでいたが、16歳の時に学校を中退。ソング・プラガー(楽譜宣伝ピアニスト)としてティン・パン・アリーの楽譜出版社で働き始める。当時の人々は楽譜やレコード、劇場を通じて音楽を楽しんでいた。

ティン・パン・アリーとは、マンハッタンの28丁目5番街と6番街の間に建つビルの総称で、ここには1880年代から多数の楽譜出版社が軒を並べ、俳優やミュージックホールの支配人たちが新曲を求めて買い漁りに来たり、作曲家たちが売り込みにやって来る場所になっていた。雇われたソング・プラガーたちは朝から晩まで弾いて聞かせたり、伴奏したり、時には歌った。その様子がまるで「ブリキの鍋を叩いているような路地」みたいだったので、「ティン・パン・アリー」と呼ばれるようになった。

ジョージが出入りするようになった1910年代は優秀なソングライターが現れ、ティン・パン・アリーの黄金時代が始まる。同じソング・プラガーだったアーヴィング・バーリンやジェローム・カーンと出逢ったのもこの頃だ。新曲の宣伝にかけてはジョージの右に出る者はいなかった。

19歳の時、早くも作曲家としての転機が訪れる。ディキシー賛歌「スワニー」が当時の人気スター、アル・ジョルソンによって歌われて大ヒット。産業都市化したアメリカの喧騒のリズムを聴きながら育っていたジョージは、アメリカとアフリカが溶け合った新しい感覚を最初から身につけていた。

こうして一躍有名になったジョージは、幕開けたばかりのローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)=作家のF・スコット・フィッツジェラルドが命名した「ジャズ・エイジ」における若く輝かしい存在として未来が約束される。そしてラジオが登場した。

ジョージ・ガーシュインは、1920年代の空を駆け抜けた流星の中でも誰よりも輝いていた。力強い音楽と人間的な魅力で、時代を明るく照らし出していた。
──ウィリアム・ジンサー著『イージー・トゥ・リメンバー』より

1924年2月24日、「現代音楽における実験」というコンサートで「ラプソディ・イン・ブルー」が初披露された。これは人気楽団を率いるポール・ホワイトマンから依頼されたもので、ジョージが3週間で書き上げた。クラリネットによる17音のグリッサンド(滑奏)で始まる印象的なこの協奏曲は、好景気に沸くアメリカのサウンドトラックとして多くの人々に感動を与えた。

同年には兄アイラが作詞を担当するようになる。詩に関する知識を貪欲に吸収していたアイラは、スラングを取り入れることによって楽しい気分が生まれることを知っていた。それがジョージの曲と完璧に調和することも。ガーシュイン兄弟はブロードウェイ・ミュージカルの新作の仕事を手掛けるようになり、舞台からはフレッド・アステアやジンジャー・ロジャースらのスターが次々と誕生した。

長身でハンサム、着こなしも粋で社交的、おまけに独身だったジョージは、毎晩のように開かれるパーティでは自分の曲を演奏する。対して兄のアイラは背が低くて無口。既婚者で遠慮がちな性格だったが、大衆から注目を浴びる弟に愛情を注ぎ続けた。ジョージは1925年7月20日号のタイム誌でアメリカ人作曲家として初めてカバーを飾った。



「パリのアメリカ人」の作曲に先立つ1928年。ヨーロッパに渡ったジョージは、面白いエピソードを残すことになる。作曲の勉強のためにラヴェルに弟子入りを申し出ると、「君はすでに一流の作曲家ガーシュインで通っている。なぜ二流のラヴェルになりたいのですか? 君は君自身の道を進みなさい。君には教師は必要ない」と返され、ストラヴィンスキーに作曲の指導を仰いだところ、「君は作曲でどれくらいの収入があるんだい?」と言われて正直な額を伝えると、「それなら君、僕の方から君に教わりたいくらいだ」と笑われた。

1929年10月、アメリカを襲った大恐慌。30年代はビング・クロスビーの甘い声、スウィング・ジャズ、トーキー映画、アステアとロジャーズらによるミュージカル映画の時代になった。

黒人たちの文化に心酔していたジョージは、従来の型どおりのエンターテインメントを変革する機会を伺っていた。そこで考えたのが前例のないオール黒人キャストによる、サウス・カロライナ州チャールストンの黒人居住区を舞台にした、足の不自由な青年ポーギーと美女ベスとの恋を描いた全3幕9場のフォーク・オペラ。

2年の歳月を掛けて書かれた「ポーギーとベス」は1935年10月にブロードウェイで上映。有名なアリア「サマータイム」を含み、今ではアメリカのミュージカル史上最高峰の作品と評価されているが、1935年の初演時の反応は演劇評論家からはミュージカルではない、音楽評論家からはオペラではないと言われる始末で芳しくなかった。

1936年、ミュージカル映画『踊らん哉』(Shall We Dance)でアステアとロジャーズに華麗なステップを踏ませた後、ジョージは翌年7月11日に脳腫瘍のため38年の生涯を静かにハリウッドの病室で閉じた。ニューヨークの告別式では、バッハやシューマン、ベートーヴェンが流れ、最後に「ラプソディ・イン・ブルー」が演奏されたという。少し雨が降っていたそうだ。

ジョージ・ガーシュウィンの人生や音楽を知りたい人は、『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue/1945)をぜひ観てほしい。40年代にしばしば作られた音楽家伝記物の中でも最も成功した例で、全編に渡ってガーシュウィン・ナンバーが流れる。アル・ジョルソンやポール・ホワイトマンも本人役で出演している。

ちなみに『アメリカ交響楽』は、ワーナーのトーキー最初の映画誕生から20周年を記念して制作され、日本では第二次世界大戦後初めてロードショー興行として公開された映画でもある。

映画の予告編


20世紀を代表する名曲「ラプソディ・イン・ブルー」

スタンダードナンバーの一つ「バット・ノット・フォー・ミー」

『アメリカ交響楽』

『アメリカ交響楽』

詳細/コメント


*アメリカのポスター

*日本公開時(昭和22年)のパンフレット

*参考・引用/『イージー・トゥ・リメンバー』(ウィリアム・ジンサー著/関根光宏訳・国書刊行会)、『アメリカ交響楽』パンフレット(昭和22年版)

評論はしない。大切な人に好きな映画について話したい。この機会にぜひお読みください!
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