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黒柳徹子がその独特な持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』

2016.05.06

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歌を耳で聴くだけではなく、目でも音楽を楽しむ。
そんな生活が身近になったのは1960年代前半に、テレビが一般家庭にまで普及したおかげだった。

餓えや衣食住の心配が少なくなり、眠る時も安心して夢を見られる。
戦争のない平和な時代がやって来たことで、若者たちに歌や音楽が身近なものになった。

1961年4月8日の夜10時、NHK総合テレビで伝説の番組が始まった。
音楽とトークとコントによる音楽バラエティ『夢であいましょう』はモノクロで生放送だった。

これに少し遅れて6月から日本テレビで『シャボン玉ホリデー』が始まる。
テレビという新しいメディアの時代が、まさに幕を開けようとしていたのである。

夢であいましょう 八大さん背中

NHKのディレクターだった末盛憲彦は半年間アメリカに渡って、最新のアメリカ文化を吸収して帰国した。
これまでにないエンターテインメント番組を作ろう、末盛はそう考えて企画と構成には新進気鋭の放送作家、27歳だった永六輔を選んだ。

「テレビはまず新鮮でなくてはならない」


末盛は音楽監督に、人気ジャズピアニストの中村八大を抜擢した。
中村八大が作曲してプロデュースした「黒い花びら」(歌・水原弘)が第1回レコード大賞を受賞したことで、日本の音楽シーンには新しい風が吹き始めていた。

「黒い花びら」で初めて作詞を手がけた永六輔は、それからは歌作りにも大いに才能を発揮することになる。

永六輔と

レギュラー出演者に抜擢されたのはまだ無名の女優やコメディアン、新人といってもいい歌手たちだった。
永六輔のこんな発言が残っている。

「若い人がたくさん集まってきました。
若かった渥美清さん、若かった黒柳徹子さん、坂本スミ子さん、デューク・エイセス。
そしてまだ幼かったといったほうが似合う坂本九」


この他にも三木のり平、益田喜頓、谷幹一、E・H・エリック、岡田真澄といった、芸達者で多彩なコメディアンと俳優が、レギュラー陣に加わっていた。

夢であいましょう コント  

番組のために毎月1曲、中村八大と永六輔による「今月の歌」が書き下ろされた。

そこから「上を向いて歩こう」(坂本九)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「帰ろかな」(北島三郎)など、たくさんのヒット曲が生まれてきた。

そしてテーマ・ソングの「夢であいましょう」(坂本スミ子)は、シンプルな歌詞とメロディで聴き手の情感を震わせた。

「夢であいましょう」
作詞 永六輔 作・編曲 中村八大

夢であいましょう
夢であいましょう
夜があなたを抱きしめ
夜があなたに囁く
うれしげに 悲しげに
楽しげに 淋しげに
夢で夢で
君も僕も
夢であいましょう


「夢であいましょう」というテレビ番組とテーマソングから、明日への希望を受けとめていた若者がたくさんいた。
経済的にはまだ貧しかった時代でも、誰もが夢を持っていたという意味では、精神的に豊かだったのかもしれない。

永六輔が書いた詩を朗読するコーナー「リリック・チャック」を担当したのは、仲間内で”チャック”と呼ばれていた黒柳徹子だ。

番組内のメロドラマ「逢うは別れの始めなり」でも、黒柳徹子は渥美清と恋人役で共演していた。
そのときのことを、永六輔との対談でこう語っている。

渥美さんが何かのはずみで「なんだ、このアマ」と私に言った。
ほら、浅草の人だから下町の言葉でね。
そのとき私は、「は?アマっておっしゃると?」と言ったんだって。
「この手の女はイヤだ」と思ったって、渥美さんあとで言ってた。


黒柳徹子は彼女にしか持ち得ないユニークな才能を発揮し始めて、『夢であいましょう』という場に不可欠な存在になる。
そしてどこにもいないタイプのテレビ・タレントとして、ここから大きな花を咲かせていくのである。

夢であいましょう 徹子と八大さん

司会者の中嶋弘子が結婚の為に1965年3月で番組を降板すると、『夢であいましょう』が終了するまでの1年間、黒柳徹子が替わって司会を務めた。





(注)このコラムは2016年4月8日に公開した『誕生から55年目を迎えた日本のスタンダード・ソング「夢であいましょう」とあの時代』を、改作改題したものです。

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