20世紀はラジオやテレビといった放送メディアが発展したことや、レコードの製造や再生機の普及などによって、音楽の表現領域とその影響力が大きく拡がった。
そんな時代のパイオニアだったのが、ラジオとテレビの放送作家からスタートし、20代の半ばから30代にかけての10年間、作詞家として活躍した永六輔である。
一貫して市井の生活者の視点を持ち続けた永六輔だったが、才能を発揮し始めたのは中学生のときで、まだ東亰が焼け野原だった頃だった。
当時の日本で最も人気のあったNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にコントを書いて応募していたハガキが、番組の中心人物で人物で、作詞・作曲を手がける三木鶏郎の目に留まったのだ。
高校生になると三木が主宰する文芸部にも、自由に出入りするようになっていく。そして早稲田大学に入ってからはスタッフとして参加し、たちまちのうちに人気放送作家になっていった。
大学の先輩であるジャズ界のスターだった中村八大に頼まれた最初の歌作りでは、1959年に第1回日本レコード大賞に輝いた「黒い花びら」と、21世紀になって広く知られるようになった「黄昏のビギン」の原曲が誕生している。
その後は中村八大とのソングライティングによって、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「帰ろかな」など、それまでの流行歌とは異なるポピュラーソングのヒット曲を誕生させた。
また、三木鶏郎の門下である作曲家のいずみたくとのコンビでも、「見上げてごらん夜の星を」を皮切りに、「いい湯だな」「女ひとり」などを作詞し、現在でも歌い継がれているスタンダード・ソングを数多く残した。
永六輔は日本の音楽史において、日常会話に使われる普通の話し言葉による歌詞で、最初に成功した人である。
当時の作詞家は日本語の特徴である七五調による文語的な表現から、多かれ少なかれ逃れられないでいた。しかし永六輔はわかりやすい話し言葉を生かしながらも、「橋」と「箸」のイントネーションの違いなどにも気をつかい、西洋音楽のリズムとメロディに自然な感じでマッチする日本語の歌詞を書いた。
ことさら詩的な表現を使うことなく、誰にでもにもわかる話し言葉で歌を書いたことについて、永六輔が逝去した2016年に出版された「笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話。」(小学館)のなかで、著者のさだまさしがこのように述べていた。
歌はいわば生鮮食品です。時が経ば腐ります。特に「言葉」が傷むのは早く、すぐに古びてしまう。ところが、永さんの歌詞はぜんぜん古くない。今の世に新曲として出しても十分、通用します。
それが永六輔ならではの表現力によるものであり、シンプルな「言葉」の選び方には、他の追随を許さないものがあった。
幼い頃からNHKの『夢であいましょう』を観て育ったさだまさしは、自分がシンガー・ソングライターとして活躍するようになってから、永六輔の強い影響下にあることに気がついたという。なかでも「遠くへ行きたい」は別格だと感じて、「これほど見事な旅の歌はない」と高く評価している。
この歌があるためか、僕は今でも旅の歌が書けません。奈良や津軽、いろいろな場所を舞台に歌をつくりましたが、それはそこで生活している人々の視点です。旅がテーマではありません。『生きるものの歌』『夢であいましょう』‥‥‥永さんの書いた歌詞をじっくり読み直して、僕の歌の原型がここにあることを確信しました。『関白宣言』も『親父の一番長い日』も『防人の詩』も、今思えば永さんが先にやっている。まるで孫悟空の気分です。『遠くへ行きたい』に憧れ、歌を作り続け、随分がんばってきたなと振り返ったら、いまだ永さんの手のひらの上だったということです‥‥‥。
(注)本コラムは2016年7月12日に公開されたものを改題、改訂したものです。
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