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中村八大と永六輔のコンビが誕生した記念すべき処女作「黒い花びら」

2016.07.15

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東京都練馬区にある少年鑑別所で代々歌い継がれてきた作者不詳の歌、「ネリカン・ブルース」がロカビリーブームの渦中で作られた東宝映画『檻の中の野郎たち』で、主題歌に決まったのは1959年のことである。
それを歌ったのは新人ロカビリー歌手の守屋浩、アレンジは音楽監督を担当した中村八大だった。

7月下旬に公開される映画にさきがけて、レコード会社のコロムビアは「檻の中の野郎たち」のタイトルで発売することにした。
だが鑑別所で歌い継がれてきたままの内容では社会的に見てまずいだろうと、映画の脚本を書いた関沢新一によって歌詞は穏便なものに書き変えられた。

これに目をつけたビクターが同じ「ネリカン・ブルース」をもとにして、まだ無名だった坂本九で「野郎たちのブルース」をぶつけてきた。
さらには東芝レコードがロカビリー・スターの山下敬二郎に、そのものズバリの「ネリカン・ブルース」を歌わせた。

こうして3社による競作として発売されることになった「ネリカン・ブルース」が、1959年6月30日の毎日新聞の社会面に大きく取り上げられた。
青少年不良化防止キャンペーンを連載していた毎日新聞は少し前に、口から口へと歌い継がれる「練鑑ブルース」のことを日陰の歌として紹介したばかりだった。

この批判的な記事が発端となって、「ネリカン・ブルース」は社会問題になってしまう。
毎日新聞は「レコード会社に警告する」と、強い口調の社説を7月1日に掲載した。

 この機会にいいたいのは流行歌を作る人たちの、ものの考え方の浅さについてである。ヤクザを否定すればヤクザを取り扱っても問題はない、というのがヤクザの歌をはやらせる口実になっているが、実際には、ヤクザを否定することで、感傷的気分をそそっているため、かえってヤクザを好ましいものに感じさせている。ぐれた女性の感傷を主題にして、やはり同様な気分を、世間に与えている傾向もあるし、愚劣低級な歌の数々で、一般の娯楽に暗い影をつくりすぎていることを、反省してみてはどうだろう。我々は「練鑑ブルース」の発売をとりやめるようにすすめると当時に、商売のために、流行歌を邪道へそれさせているレコード会社に警告する。
(毎日新聞1959年7月1日)


それらの報道をきっかけにして、法務省までこの問題に口を挟んできた。
その結果、どこのレコード会社も発売中止の判断を下さざるを得なくなった。

そこであおりをくらったのが「黒い花びら」である。
無名の新人だった水原弘のデビュー曲「黒い花びら」は、山下敬二郎の「ネリカン・ブルース」のB面として発売される予定になっていたのだ。

「黒い花びら」
作詞:永六輔 作・編曲:中村八大

黒い花びら 静かに散った
あの人は帰らぬ 遠い夢
俺は知ってる
恋の悲しさ 恋の苦しさ
だから だから
もう恋なんか したくない
したくないのさ


東宝映画『青春を賭けろ』の音楽監督としてこれを作った中村八大は、それまでの日本にはない新しい歌ができたと自信満々だった。

だが東芝レコード大賞の担当ディレクターやその同僚たちは、みんな「変な歌だなあ」と口をそろえたという。
日本で最初の画期的なリズム・アンド・ブルースは、曲想もサウンドも新しすぎて当時のプロたちには理解できなかった。

こうして「黒い花びら」は発売中止となり、オクラ入りしかかったのである。

しかし発売中止が納得できない中村八大は、東芝レコードの制作と宣伝の責任者の石坂範一郎に会いに行って発売を直訴した。
その結果、「黒い花びら」をA面にした水原弘のデビュー・シングルが、ひと月後に発売されることになった。

永六輔黒い花びらジャケット

社内の宣伝や営業の担当者たちは、その決定については半信半疑だったという。
ところが「黒い花びら」は発売されてすぐに、若者たちの支持を集めて人気に火がつき始めたのだ。

水原弘のハスキーな声の魅力と安定した歌唱力、それら支える迫力ある演奏によってヒットした「黒い花びら」は、その年に制定された第1回レコード大賞でも堂々のグランプリにも選ばれた。

レコード会社が専属作家として抱える作曲家や作詞家ではなく、ジャズの世界や放送作家の中から、若くて瑞々しい感性を持った新しい才能が登場した。
それは日本の音楽シーンにとって画期的なことだった。

レコード会社に所属しないフリーの作家が新鮮な歌を作って大ヒットさせたという事実は、音楽業界の構造を根本から変えていく第一歩となる。
作詞家として脚光を浴びた永六輔は、その時のことを振り返ってこう語っている。

ぼくは「八大さんあっての私です」って言ってるんです。
それまでまったく作詞などしたこともないぼくに、詞を書くように勧め、ぼくが考えてもいなかったぼくの才能を引き出してくれた大恩人ですから。
八大さんは学生の頃「ビッグフォー」というジャズバンドの天才ピアニストとして、当時すでに大スターだったんです。
声をかけられただけで幸せというくらいでした。
その後、民間放送が始まった当初、ぼくがジャズ番組の構成をしていて、八大さんからたまたま作詞をしないかと誘われました。
どう書いたらいいかわからないぼくに、「ぜったい書けるから」「とにかくやってみろ」と言って、歌の付録が付いていた雑誌「平凡」を参考にって渡してくれたんです。
それで書いたのが『黒い花びら』。
これが第1回のレコード大賞を受賞して、次々と作詞の注文が来るようになった。
ぼくはおしゃべりをするように日常会話で詞を書いてたんですけど、八大さんは、詞のムダな部分を一切削ぎ落とし、見事な歌に仕上げてしまう。
歴史の先生にでもなろうかと思っていたぼくに、作詞という一つの才能を見い出だしてくれた。


こうして「六・八コンビ」が書く新鮮な歌が、日本の歌謡曲が進むべき道標になっていく。

このとき永六輔は26歳、中村八大は28歳だった。

永六輔水原弘中村八大

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