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ロンドンに置き去りにされたウェイラーズ

2014.06.21

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1972年の夏、27歳のボブ・マーリーは夏でも肌寒いロンドンで、夜の寒さに耐えていた。

ボブ・マーリィウェイラーズ
ボブ・マーリーとピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーの3人からなるウェイラーズは、現在でも名曲との誉れ高い「ワン・ラブ(One Love)」をヒットさせるなど、60年代の半ばからジャマイカでは不動の人気を得ていた。

だが、当時のジャマイカはカリブ海の小さな島のひとつに過ぎなく、ウェイラーズはロンドンのジャマイカ人コミュニティーの外では、まだ無名だった。

ジャマイカ移民が多く住むイギリスで大々的に売り込もうと、ウェイラーズを呼んでツアーを企画したのは、楽曲の権利を持っていたダニー・シムズだ。
しかしツアーはなかなか実現せず、待たされた3人は安アパートで無為に時間を過ごさざるを得なかった。そしてある朝、気がつくとシムズの姿が消えていた。
シムズはウェイラーズを置き去りにしたまま、別の仕事でアメリカに行ってしまったのだ。

一文無しでロンドンに残されたウェイラーズは 苦境に陥り、伝を頼ってアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルに相談することにした。

イギリスに生まれてジャマイカに育った白人だったクリスは、イギリスに住むジャマイカ人に向けて、ジャマイカ音楽のレコードを販売するアイランド・レコードを設立して成功していた人物だ。

アイランド
スペンサー・デイヴィス・グループのマネージメントをきっかけに、トラフィックやキング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマーといったロック・ミュージシャンが名を連ねて、アイランドは世界的に注目を集めるインディーズ・レーベルに成長していた。

ボブ・マーリィにとってロンドンは見知らぬコンクリート・ジャングルで、クリスは希望の光に見えたのかもしれない。

運がいいことにレゲエ・シンガーのジミー・クリフがメジャーのEMIへ移籍し、アイランドにはジャマイカのアーティストがいなくなったところだったのだ。クリスにとっても、ウェイラーズとの出会いは絶妙のタイミングとなった。

すぐにアルバム契約を結んだクリスはボブを信用して、前金として4000ポンドもの大金を渡した。

きっと どこかに光があるはず
このコンクリート・ジャングルのかわりに・・・
幻想・・・混乱・・・
冷たい都会のコンクリート・ジャングル
おまえたちが作り出したんだ
このコンクリート・ジャングルに
俺が生きていかなきゃいけない理由があるのかい?

(「コンクリート・ジャングル」)



ジャマイカに帰ったボブはすぐにアルバム制作を開始し、その年が終わらないうちに『Catch a Fire』を完成させた。
そしてマスターテープを持って、冬のロンドンに戻ってきたのだ。

クリスはマスターテープを聴いて、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは加速度的に広まっていたロックのマーケットでも、間違いなく成功すると確信する。
そこで世界に向けて別ヴァージョンを制作するアイデアを思いつく。

それまでの黒人スターのようにではなく、彼らをロック・スターのように売り出すべきだという私の直感を、ボブは信じてくれたんだ (クリス・ブラックウェル)


完成した作品に後で別人に手を加えられることは、表現者なら誰もが拒否反応を起こすのが当然である。
だが、ボブ・マーリィはクリスを信じた。

世界のマーケットを意識したアルバム『Catch a Fire』には、アメリカ南部のマッスルショールズから来たギタリストのウェイン・パーキンスと、やはりアメリカ生まれで父親もカントリー・ミュージシャンのジョン“ラビット”バンドリックがオルガンで参加した。

彼らのオーバーダビングでロック・ファンにも受け入れられるようなサウンドになり、1973年4月にリリースされた『Catch a Fire』は世界中のリスナーに衝撃を与える。

社会的な内容の歌詞と力強いサウンドを持つレゲエという新しい表現と、ボブ・マーリーという稀有なシンガーの存在を知らしめたのだ。

1981年5月11日にボブが36歳の若さで息をひきとるまで、クリスとの信頼関係は変わることなく続いたという。


ボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズ『キャッチ・ア・ファイア』
ユニバーサル ミュージック

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