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27歳になった大瀧詠一を待っていたのは、地獄の責苦のようなハード・スケジュールだった

2017.07.15

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1975年6月9日にスタートした大瀧詠一のDJ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ(GO! GO! NIAGARA)』は、1978年9月25日まではラジオ関東で、1979年10月14日からはTBSラジオでオンエアされた。
それぞれ休養をはさみながらではあったが、1983年まで足かけ8年も放送される長寿番組となった。

大瀧の豊富な音楽体験に裏打ちされたこの番組では、博学と見識をもとにして毎回、個人的な趣味による選曲で特集が組まれていた。

『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、開始当初より、常に“特定個人”に向けての放送でした。
その“特定個人”とは誰か?
そうです!“大瀧詠一・本人”です。
自分が自分に話しかける、これが『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の基本姿勢でしたし、これからも大瀧がDJをやる限りに於いては、未来永劫変ることはありません。


深夜から明け方に近い午前3時からの放送だったこともあってリスナーはごく少数だったが、ゆえにカルト的な人気を誇るようにもなる。
番組のテーマ曲、フィル・スペクターの「Dr. Kaplan’s Office」が流れると、「Hi! Boys and girls, Ladies and gentlemen, おっかさん,おとっつぁん,this is Each-Otaki’s GO! GO! NIAGARA from 45 Studio, Fussa.50 minutes on Monday Midnight.」という口上が入る。

そして「ポップスのディレッタント、大瀧詠一の趣味の音楽だけをかけまくる50分がやってきました」という挨拶から始まるのが決まりだった。

radio_daysないあがら ナイアガラ・ラジオ・デイズ


第1回と第2回がキャロル・キングで始まった特集は、ポップス史上に残るアーティストやソングライター、プロデューサーなどを毎回取り上げた。
ポップスが一人の人間だけで作られるものではなく、ソングライターやプロデューサー、エンジニアが関わって生まれてくるということを、さまざまな角度で検証しながら深く掘り下げていったのである。

時を追って活発になっていったハガキによるリスナーとのやりとりは、ポップスの実践的な研究の場という様相を呈した。

大瀧は27歳になった1975年7月22日の翌日、「クレージーキャッツ」特集の取材でハナ肇宅を訪問している。
そこでコメディアンや喜劇人として人気があったハナ肇とクレイジーキャッツこそ、実は日本のポップスの原点で宝物なのだと確信したという。

日本ポップス史における頂点だね。
チャック・ベリーがロックンロールの原点だとすれば、日本のポップスの原点はクレージーキャッツだな。これっきゃない!




「クレージーキャッツ」に続いては、「ナイアガラ」「三橋美智也」と日本のアーティスト特集も組まれ、新しい発見によって大瀧自身の創作への活路を見出すことにもなっていく。

大瀧はそうした発見と評価をまとめて、日本のポップスに関してこんな見解を披露している。

坂本九の「上を向いて歩こう」、弘田三枝子の歌声のオリジナリティ、そしてクレージーキャッツのサウンド、これがポップスの基本の三大要素なのだ。
これさえあれば鬼に金棒、金魚にゴボウ、ポップスの御飯、味噌汁、キューリ漬けなのでありまする。


ところが楽あれば苦ありで、「ゴー・ゴー・ナイアガラ」が快調にオンエアされる一方、希望を持って1974年にスタートしたばかりのナイアガラ・レーベルが、突如として前途を閉ざされることになった。
発売元だったエレックレコードが、その1年後に不渡りを出して、まもなく倒産したのである。

メジャーなレコード会社ではCMのレコードを出してもらえないという理由から、やむなくインディーズのエレックと契約していた大瀧だったが、最初から感じていた「いやな予感」が的中してしまった。

しかし、そこへ老舗の日本コロムビアがナイアガラ獲得を表明してきたので、大瀧は新たなレーベル契約を結ぶことにした。
条件は最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことだった。
福生にある自宅のそばに「FUSSA45スタジオ」を構えて、マルチ・レコーディングが出来るようにしたいという気持ちは、何にも代えがたいほどに強かった。

そのために3年間でアルバムを12枚制作するという、信じられないような条件で大瀧はコロムビアとサインしている。
1年に4枚づつ新作アルバムをリリースするというのは、あまりにも常識はずれで無謀なことだった。
だが、「そんな“バカ”な契約、する方が悪いんじゃないの?」と言われることを承知の上で、大瀧は自らの意志で決断した。

写真.JPGナイアガラの3人


ナイアガラ構想の柱だったシュガーベイブの山下達郎と、大阪から来たココナツ・バンクの伊藤銀次の強力で、ナイアガラ・トライアングルを実現させるべくレコーディングが始まったのは11月だった。

ようやく手に入れた16チャンネルの卓を前にして、エンジニアとプロデューサーを務める大瀧に悲壮感などあるはずもない。
気の合うミュージシャンが泊まり込んだりして、レコーディングは合宿のような楽しさもあったという。

そして1976年3月25日、最初のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』が発売になった。
そこまでは順調だった。



だが実際に3ヶ月に1枚のペースでアルバムを出すためには、制作に没頭しなければならなくなるのは当然だ。
そうした地獄の責苦のようなハード・スケジュールが3年間も続くなかで、ラジオ関東の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は継続していった。
そして番組のコンセプトをそのままアルバムにした『GO! GO! NIAGARA(ゴー・ゴー・ナイアガラ)』が、1976年10月25日に発売されている。



それから24年後、はっぴいえんど時代からの朋友で作詞家の松本隆と対談した席で、大瀧詠一はその3年間のことをこんなふうに語っていた。

相変わらず「なんで何年もアルバム出さないんだ」って言われてるらしいけど、前に年四枚出すのを三回やった時は「また出しやがてこの野郎」って怒られてたんだよ(笑)。今だってじゃんじゃん出したらまたみんな怒るって。

(引用元「松本隆対談集 風待茶房 1971-2004 」立東舎)




(注)このコラムは2014年12月6日に公開されたものの改訂版です。

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