story_141206

TAP the STORY

27歳になった大瀧詠一を待っていたのは、地獄の責苦のようなハード・スケジュールだった

2016.03.19

1975年6月9日にスタートした大瀧詠一のDJ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ(GO! GO! NIAGARA)』は、1978年9月25日まではラジオ関東で、1979年10月14日からはTBSラジオで休養をはさみながら、1983年まで足かけ8年も放送される長寿番組となった。

大瀧の豊富な音楽体験と知識に裏打ちされた番組では、個人的な趣味による選曲の特集が毎回組まれた。

『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、開始当初より、常に“特定個人”に向けての放送でした。
その“特定個人”とは誰か?
そうです!“大瀧詠一・本人”です。
自分が自分に話しかける、これが『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の基本姿勢でしたし、これからも大瀧がDJをやる限りに於いては、未来永劫変ることはありません。


深夜から明け方に近い午前3時からの放送だったこともあってリスナーはごく少数だったが、故にカルト的な人気を誇るようになる。

radio_daysないあがら ナイアガラ・ラジオ・デイズ

番組のテーマ曲、フィル・スペクターの「Dr. Kaplan’s Office」が流れると、「Hi! Boys and girls, Ladies and gentlemen, おっかさん,おとっつぁん,this is Each-Otaki’s GO! GO! NIAGARA from 45 Studio, Fussa.50 minutes on Monday Midnight.」という口上が入る。
そして「ポップスのディレッタント、大瀧詠一の趣味の音楽だけをかけまくる50分がやってきました」という挨拶から始まるのが決まりだった。

第1回と第2回がキャロル・キングで始まった特集は、ポップス史上に残るアーティストやソングライター、プロデューサーなどを毎回取り上げていく。
ポップスが一人の人間だけで作られるものではなく、ソングライターやプロデューサー、エンジニアが関わって生まれてくるということを検証しながら深く掘り下げていったのである。

時を追って活発になっていったハガキによるリスナーとのやりとりは、ポップスの実践的な研究の場という様相を呈した。


大瀧は27歳になった1976年7月22日の翌日、「クレージーキャッツ」の特集の取材でハナ肇宅を訪問している。
そこでコメディアンや喜劇人として人気があったハナ肇とクレイジーキャッツこそ、実は日本のポップスの原点で宝物なのだと確信したという。

日本ポップス史における頂点だね。
チャック・ベリーがロックンロールの原点だとすれば、日本のポップスの原点はクレージーキャッツだな。これっきゃない!


「クレージーキャッツ」に続いて「ナイアガラ」「三橋美智也」と日本のアーティスト特集も組まれ、新しい発見によって大瀧自身の創作への活路を見出すことにもなっていく。

こうした発見と評価をまとめて、日本のポップスに関して大瀧はこんな見識を披露している。

坂本九の「上を向いて歩こう」、弘田三枝子の歌声のオリジナリティ、そしてクレージーキャッツのサウンド、これがポップスの基本の三大要素なのだ。
これさえあれば鬼に金棒、金魚にゴボウ、ポップスの御飯、味噌汁、キューリ漬けなのでありまする。


ところが楽あれば苦ありで、「ゴー・ゴー・ナイアガラ」が快調にオンエアされる一方、希望を持ってスタートしたばかりのナイアガラ・レーベルの前途が、突如として閉ざされることになる。
発売元だったエレックレコードが10月下旬に倒産するという事件が起こったのだ。

メジャーなレコード会社ではCMのレコードは出してもらえないという理由から、やむなくインディーズのエレックと契約していた大瀧の「いやな予感」が的中してしまった。

そこに老舗の日本コロムビアがナイアガラ獲得を表明してきたので、大瀧は新たな契約を結ぶことにした。
条件は最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことだった。

3年間でアルバムを12枚制作するという、信じられないような内容で大瀧はサインした。
1年に4枚づつ新作アルバムをリリースするというのは、あまりにも常識はずれで無謀なことだったが、「そんな“バカ”な契約、する方が悪いんじゃないの?」と言われることを承知の上で、大瀧は決断したのだった。
福生の自宅そばに「FUSSA45スタジオ」を構えて、マルチ・レコーディングが出来るようにしたいという気持ちは、何にも代えがたいほどに強かったのだ。

写真.JPGナイアガラの3人

ナイアガラ構想の柱だったシュガーベイブの山下達郎と、大阪から来たココナツ・バンクの伊藤銀次の強力で、ナイアガラ・トライアングルを実現させるべくレコーディングが始まったのは11月だった。

ようやく手に入れた16チャンネルの卓を前にしてエンジニアを務める大瀧に悲壮感などあるはずもなく、気の合うミュージシャンが泊まり込んだりして合宿のような楽しさもあったという。

1976年3月25日には最初のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』が発売になった。そこまでは順調だった。
ところが実際に次から次へとアルバム制作に没頭しなければならなくなると、地獄の責苦のようなハード・スケジュールが3年間も続くことになるのだ。

Go!Go!Niagara “年忘れ大行進 ’75 おハガキ特集


(注)このコラムは2014年12月6日に公開されたものの改訂版です。

『Niagara Triangle Vol.1 30th Anniversary Edition』
SMR

大滝詠一『Best Always(初回生産限定盤)』
SMR

TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜

スポンサーリンク

関連アーティスト

関連するコラム

[TAP the STORY]の最新コラム

このコラムへの感想・コメントを書く

Pagetop ↑