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細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道

2016.04.02

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松本隆のプロ・ミュージシャンとして音楽活動は1969年春に始まったが、それより1年前の春に細野晴臣と出会ったことが、作詞家の道への第一歩となった。

アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松本は、ベースがやめたので立教大学にベースのうまい人がいると人づてに聞いて、メンバー補充のために電話をかけて面会を申し込んで知り合う。

それがまったくの初対面だった。<参照・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松本隆のオーデションに臨んだ

慶応大学に進んだ松本はバーンズのドラマー兼マネージャーとなるが、1969年2月に細野から誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」に参加する。

フローラルはメンバー・チェンジを経て「エイプリル・フール」へ発展していくが、アルバム・デビューと同時にバンド活動を止めて解散した。

メンバーの要望でエイプリル・フールのアルバムは英語の歌詞が殆んどだったが、松本は心のなかで日本語でやりたいと思い、細野に「次は日本語でやらせてくれ」と言っていたという。

エイプリル・フール

小学生の頃からストラヴィンスキーやラヴェルを聴き、中学3年でビートルズに出会ってバンドを始めた松本は、その一方では宮沢賢治と中原中也に傾倒、ジャン・コクトーやランボーなどの詩を詠む読書家でもあった。

そんな松本が作詞を始めるきっかけはバーンズ時代に、「読書が好きなら作詞をしてみれば」と細野から言われたことだ。
それまでは音楽好きな自分と、本好きの自分が平行していた。
だが細野の言葉によって初めて「読書と音楽が交差した」のだった。

1969年に細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂の4人が「ヴァレンタイン・ブルー」を結成、70年の春に「はっぴいえんど」と改名する。
それから3年間の活動によって3枚のアルバムを発表、はっぴいえんどは新しい日本語のロックを創りだして、後の音楽シーンに多大な影響を与えることになる。

大瀧詠一 松本隆

松本ははっぴいえんど時代について、「“ことば”や“うた”を通して、生や死など人間の本質に関わる問題について答えを出そう」との思いで作詞に取り組んでいたと語っている。

それまでの歌謡曲やフォークは、恋や青春などのキーワードを並べただけのラブソングが多くて、僕にとっては絵空事だったんです。
はっぴいえんどでは、安直なラブソングではなく、身近にある風景や出来事を愛おしく想う気持ちを表現することを心がけました。
だから、「夏なんです」や「風をあつめて」は僕にとっての“ラブソング”です。「夏なんです」は、地面との距離が近くて、空は高くて広いという少年の目線で夏休みや入道雲への愛情を素直に表現できたんじゃないかな。


しかし1973年に入ったある日、松本は細野から「解散するって決まったから」と言われる。

そこで初めてバンドの解散を知らされた松本は、サラリーマンになることも考えたというが、食べていくためには作詞家になるほうが早いと思い直した。
そして知り合いのディレクターたちに、「作詞家になる」と宣言するのだ。

はっぴいえんどのレコーディング・エンジニアだった吉野金次にも、テレビのCMソングをやりたいと思ったので、「コマーシャル・ソングが書きたい」と相談した。

その時に「わかりました」と答えた吉野は、コマーシャル=商業音楽だと勘違いしたらしく、香港からやってきた人気アイドル、アグネス・チャンの仕事を紹介してくれた。
松本はアグネス・チャンの作品を書くにあたって、「とにかくやさしく。誰でもわかるように」と心がけたという。

そして1974年3月に発売されたアルバム『アグネスの小さな日記』のために書いた作品のなかから、「ポケットいっぱいの秘密」がシングルのA面に抜擢されてヒットした。

アグネス・チャン ポケットいっぱいの秘密

ひみつ ないしょにしてね 指きりしましょ
誰にも いわないでね
ひみつ ちいちゃな胸の ポケットのなか
こぼれちゃいそうなの


松本にはそこから職業作詞家への道が急速に開けていく。
しかもスタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングを担当したのが、はっぴいえんど解散後に細野が鈴木や林立夫、松任谷正隆と結成した「キャラメル・ママ」だった。

それはどこかで、運命的なつながりを感じさせる出来事であった。



歌謡曲の作詞家として活躍する松本には、生まれつき心臓が弱くて病弱だった妹がいた。
小学校に行く時にはいつも妹の分まで、ランドセルを肩に担いで通学していたという。

女の子用の赤いランドセルを持ってると、当然のことだが友達にからかわれる。

「なんで俺はこんなことしてるんだろう」と思うんだけど結局、そういう妹と一緒に育っていくわけですから。
普通の人よりも、生と死の境界線みたいなものが、日常の中で畳の目のようにあるわけです。
そういうのを感じやすくなっていたんですよね。
僕には、妹が持てないランドセルまで持ってあげることが身に染みついているから、歌手のために何かするっていうのも自然なことでしたね。
だから、これが天職だったんだと思います。


病弱の妹を思いやり、ときには妹の気持ちになって考え、妹が喜ぶことをしてあげる。
女の子の気持ちを女の子以上に表現できる作詞家の原点は、おそらくそこにあったのではないだろうか。

太田裕美の「木綿のハンカチーフ」で高い評価を得た松本は、歌謡曲の世界で次々にヒット曲を出して成功を収めて、1980年代になってからは作曲家のパートナーとして盟友の細野や大瀧とコンビを組み、松田聖子を筆頭とするアイドルやスターを輝かせていく。

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