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細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道

2017.07.22

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プロのミュージシャンとして松本隆が音楽活動を始めたのは1969年2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」に、ドラマーとして加入したときからである。

アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松本はベースがやめたので、立教大学にベースのうまい人がいると聞いて、メンバー補充のために細野に電話をかけて面会を申し込んだ。
細野が20歳、松本は18歳、それがまったくの初対面だった。

<参照>・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松本隆のオーデションに臨んだ

慶応大学に進んだ松本がバーンズのドラマー兼マネージャーとして、ディスコのハコバンなどで稼いでいたとき、複数のバンドを掛け持ちしていた細野から、フローラルに参加しないかと声がかかった。

松本はオーディションを受けて、正式に加入することになった。
そこからフローラルはメンバー・チェンジを経て「エイプリル・フール」へ発展するが、その年の9月にアルバム『Apryi Fool(エイプリル・フール)』を出すと同時に解散する。

エイプリル・フール

小学生の頃からストラヴィンスキーやラヴェルを聴いていた松本は、中学3年でビートルズに出会って直撃をくらい、「こんな面白いものがあるんだ」と思ってバンドを始めている。
その一方では宮沢賢治と中原中也に傾倒、ジャン・コクトーやランボーなどの詩を詠む読書家でもあった。

作詞を始めるきっかけはバーンズ時代に細野から、「お前はいつも本を読んでるから詞を書け」と言われたことだった。
それまでは音楽好きな自分と本好きの自分が平行していたが、細野の言葉によって初めて「読書と音楽が交差した」のである。

しかしエイプリル・フールのアルバムは「外国にも出ていきたいから英語でやるべきだ」というメンバーの要望で、英語の歌詞がほとんどになった。
作詞した松本は心のなかで日本語でやりたいと思っていたので、細野に「次は日本語でやらせてくれ」と言っていた。

ぼくは自分の内面の何かを引き出すのが歌だと思っていたから、そこに翻訳が媒介すると、ワン・クッション入るわけですから、そこでパワーを失ってしまう。だから英語はなるたけやめたい。学校教育の何年間かでわずかに覚えた言葉よりも生まれたときからしゃべったり聞いたりしてきた日本語のほうが語彙も多いし、使いこなせる。使いこなせる言葉で書いたほうが説得力を持つと主張したんです。


細野晴臣と松本隆はエイプリル・フール解散後、大瀧詠一と鈴木茂の4人で「ヴァレンタイン・ブルー」を結成、70年の春になって「はっぴいえんど」と改名した。


大瀧詠一 松本隆

松本ははっぴいえんど時代について、「“ことば”や“うた”を通して、生や死など人間の本質に関わる問題について答えを出そう」との思いで作詞に取り組んでいたと語っている。

それまでの歌謡曲やフォークは、恋や青春などのキーワードを並べただけのラブソングが多くて、僕にとっては絵空事だったんです。
はっぴいえんどでは、安直なラブソングではなく、身近にある風景や出来事を愛おしく想う気持ちを表現することを心がけました。
だから、「夏なんです」や「風をあつめて」は僕にとっての“ラブソング”です。「夏なんです」は、地面との距離が近くて、空は高くて広いという少年の目線で夏休みや入道雲への愛情を素直に表現できたんじゃないかな。


しかし1973年に入ったある日、松本は細野から「解散するって決まった」と言われてしまう。
はっぴいえんどは3年間の活動で3枚のアルバムを発表し、新しい日本語のロックを創りだして音楽シーンに多大な影響を与えたが、役目を終えたのである。

そこで初めてバンドの解散を知らされた松本は、サラリーマンになることも考えたという。
だが、生活していくためには作詞家になるほうが早いと思い直して、知り合いのディレクターたちに「作詞家になる」と宣言する。

はっぴいえんどのレコーディング・エンジニアだった吉野金次にも、テレビのCMソングをやりたいと思って「コマーシャル・ソングが書きたい」と相談した。

その時に吉野は「わかりました」と答えたが、コマーシャル=商業音楽だと勘違いしたらしい。まもなくして、香港からやってきたアグネス・チャンの作詞という、歌謡曲の仕事を紹介してくれた。

アグネス・チャン ポケットいっぱいの秘密

アグネス・チャンの作品を書くにあたって、松本は「とにかくやさしく。誰でもわかるように」と心がけたという。
そして1974年3月に発売されたアルバム『アグネスの小さな日記』のために書いた作品から、「ポケットいっぱいの秘密」がシングルのA面に抜擢されてヒットする。

ひみつ ないしょにしてね 指きりしましょ
誰にも いわないでね
ひみつ ちいちゃな胸の ポケットのなか
こぼれちゃいそうなの


そこから松本には歌謡曲の作詞家へと、道が急速に開けていくことになった。
しかもこのとき、スタジオ・ミュージシャンとして「ポケットいっぱいの秘密」レコーディングを担当したのは、はっぴいえんど解散後に細野が鈴木や林立夫、松任谷正隆と結成した「キャラメル・ママ」だった。

それはどこかで運命的なつながりを感じさせる出来事であった。




歌謡曲の作詞家として活躍する松本には、生まれつき心臓が弱くて病弱だった妹がいた。
小学校に行く時にはいつも妹の分まで、ランドセルを肩に担いで通学していたという。

女の子用の赤いランドセルを持ってると、当然のことだが友達にからかわれる。
だが病弱の妹を思いやり、ときには妹の気持ちになって考えて、妹が喜ぶことをしてあげるのは兄として当然のことだった。

「なんで俺はこんなことしてるんだろう」と思うんだけど結局、そういう妹と一緒に育っていくわけですから。
普通の人よりも、生と死の境界線みたいなものが、日常の中で畳の目のようにあるわけです。
そういうのを感じやすくなっていたんですよね。
僕には、妹が持てないランドセルまで持ってあげることが身に染みついているから、歌手のために何かするっていうのも自然なことでしたね。
だから、これが天職だったんだと思います。


女の子の気持ちを女の子以上に表現できる作詞家の原点は、おそらくそうした体験の積み重ねにあったのではないだろうか。

1975年に太田裕美のために作った「木綿のハンカチーフ」で高い評価を得た松本は、歌謡曲の世界で次々にヒット曲を出して成功を収めていく。
1980年代に入ってからは作曲家のパートナーとして、盟友の細野や大瀧とコンビを組むことも増えて、松田聖子を筆頭とするアイドルやスターを輝かせる、プロデューサー的な作詞家となっていったのである。



本コラムは2016年4月2日に初公開されたものの改訂版です。なお本文中の松本隆氏の発言は「松本隆対談集 風街茶房 1971-2004」(立東舎」からの引用です。

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