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ひこうき雲〜ユーミンの才能を世に知らしめるきっかけとなった“稀代の名曲”の誕生エピソード

2023.12.31

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僕がユーミンと知り合ったのは、まだ彼女が中学生のころでした。
新宿の『ACB』や池袋の『ドラム』といった都内のジャズ喫茶でよく話をしました。出会ったころのユーミンはショートカットでニキビがいっぱいあって、女性というより、面白い女の子という印象でしたね。
彼女は昔から音楽に詳しくて、立川や横田の米軍基地にあるPX(売店)に入り浸っては海外の最新レコードを仕入れていた。
レッド・ツェッペリンを僕に教えてくれたのも彼女でした。
僕が彼女を“ユーミン”の愛称で呼び始めたのも、この頃からでしたね。
(シー・ユ―・チェン/“ユーミン”という愛称の名付け親)



──1954年、老舗の呉服屋の次女として生まれた彼女は6歳でピアノを習い始めた。
幼い頃から聖歌隊にも所属し、バッハやヘンデルに親しんでいた音楽好きな少女だった。
早熟なところもあり、中学生時代には学校が終わると六本木のディスコに通い、朝まで踊り続けていたという。
そんな夜遊びを通じて、かまやつひろしや細野晴臣やなど大勢のミュージシャンと出会い、彼らの影響から自らも曲を作るようになる。
1969年、それは彼女がまだ15歳の頃の出来事だった。
タイガースのメンバーだった加橋かつみがロックミュージカル『ヘアー』に出演中、仲間から「愛は突然に」という曲を紹介される。
彼はすぐにその曲が気に入り、自身のシングル曲としてリリース。
実はこの歌こそ、ユーミンが14歳の時に作詞作曲したものだった。
以来、彼女はミュージシャンの間で“天才少女作曲家”として知られるようになる。
彼女の荒井由実時代やYMOを手掛けた音楽プロデューサー(作曲家)の村井邦彦は、当時のことをこう振り返る。

僕が初めてユーミンの曲を聴いたのは、彼女がデビューする2年くらい前でした。
当時、僕は元ザ・タイガースの加橋かつみさんに曲を提供していて、彼のレコーディングに立ち会ったんです。
すると、僕の曲の前に録音していた曲がすごく良かった。
それで加橋さんに「誰が提供した曲なの?」と聞くと「由実という女の子」というので、すぐに紹介してもらったんです。
初対面の彼女はまだ高校生だったんだけど、すごく真面目な子という印象でしたね。
僕は当時アルファミュージックという音楽出版社を経営していたので「ウチの専属作曲家になりませんか?」と誘ってみたところ「大学に入ってからお願いします」という返事だった。


そして18歳を迎えた1972年、彼女は多摩美大に入学すると同時に本格的に音楽活動を開始する。
初めは作曲家志望だったが、村井邦彦の勧めで同年7月5日にかまやつひろしのプロデュースのもと、サディスティック・ミカ・バンドに加入したばかりの高橋幸宏も参加したシングル「返事はいらない」で荒井由実としてレコードデビューを果たす。
しかし、当時そのシングルは300枚しか売れず…後に“幻のデビューシングル”と呼ばれるようになる。
一般に彼女の名前が知られるようになるのは、翌1973年の11月5日にリリースしたシングル「きっと言える/ひこうき雲」がきっかけだった。
当時はフォーク全盛時代で、そんな時代にプロコル・ハルムやミッシェル・ポルナレフの影響を受けたというヨーロピアン感覚の彼女の歌は多くの音楽ファンに衝撃を与えたという。
そんな中、彼女は自分の音楽を“有閑階級サウンド”と称して「私の音楽は四畳半フォークではないからジーンズははかない」と宣言した。
同月にはデビューアルバム『ひこうき雲』をリリース。
この作品からキーボード奏者として参加していた松任谷正隆と3年越しの愛を実らせ、1976年11月に結婚。
これ以降、彼女は荒井由実から松任谷由実に名前を変えて活動するようになる。
そして、夫でありプロデューサーでもある松任谷正隆の音楽的戦略のもと、女性アーティストとして「トップの地位」を築き、「不動の人気」を手に入れることとなる。




彼女の音楽人生を成功へと導いたこの「ひこうき曇」が誕生した裏には、悲しく切ない実体験があるという。
彼女が小学生の時に、同級生に深刻な病(筋ジストロフィー)を抱える男の子がいた。
懸命な闘病も虚しく、その男の子は高校生の時に亡くなってしまう。
彼女にとって、その出来事は忘れられない悲しみとなり…後にこの「ひこうき雲」の歌詞を生み出すきっかけになったというのだ。
彼女は著書『ルージュの伝言』の中で、当時のことをこんな風に語っている。

「小学校の同級生の子が高校一年の時に死んで、お葬式に行きました。集まった仲間との小学校の同窓会的な感覚を感じている一方、その子の遺影の顔が大人(高校生)の顔をしていて…そのことにとてもインパクトを受けたことを憶えています。」

知る人ぞ知るブランドコンサルティング会社CIAのCEOであり、“ユーミン”という愛称の名付け親でもあるシー・ユ―・チェンは、この楽曲についてこう語る。

「ひこうき雲」は彼女が若くして亡くなった友人を悼み、その命を一筋の雲になぞらえて歌った曲です。
人の死をとりあげながらも、重々しくないメロディーとアレンジが印象的です。
当時の彼女は純粋に、真剣に自分の人生や将来を見つめていた。
だからこそ命をテーマにしたあの曲を書いたんじゃないでしょうか。
最先端のスタジオに最高のミュージシャンが集まり、好きなだけ時間をかけて作ったからこそ、あれだけの作品になったんでしょうね。
レコードが完成した後、ユーミンはわざわざ僕の家まで届けてくれたんですよ。
「これ作ったのよ」って、とても嬉しそうだった。


彼女のデビューアルバム『ひこうき雲』の音楽プロデューサーとして製作に携わった有賀恒夫は、当時のことをこう振り返っている。

アルバム『ひこうき雲』は完成まで1年以上もかかったんですよ。
楽器の演奏部分はすぐに録れたんだけど…。

バックバンドのキャラメル・ママは錚々たるメンバーだった。
細野晴臣(ベース、「はっぴいえんど」「YMO」)を始め、松任谷正隆(キーボード)、鈴木茂(ギター、「はっぴいえんど」)に林立夫(ドラム)。
当時の日本のミューミュージックシーンにおいて最高峰と言っても過言ではないバンドだった。

ただ、肝心の歌入れが難航したんです。
いざ録ろうとすると、バックの演奏レベルが高いだけに、ユーミンの歌のつたなさが耳についたんです。
どうしてなんだろう?と考えてみると…彼女の声はずっと細かく震えていたんですね。僕は“ちりめんビブラート”と呼んでいたんだけど、これならビブラートをかけないほうが彼女に合っていると考えました。
それでユーミンには「とにかくビブラートはかけるな」と、指示しました。
当時のユーミンは音程にも問題があった。
しかも彼女は喉が弱かったので、痛みが出るのを心配しながら「もう一回、もう一回」と続けていった。
そんな日が続いたあるとき、耐えきれなくなったユーミンが僕に「音程が少しくらい悪くても、雰囲気が良ければそのほうがベターでしょ?」と言ってきたことがありました。でも音程こそが生命線だと考えていた僕は「ラジオのオンエアのように一回限りならそれでもいい。けれど、これはずっと残る作品なんだ。」と諭しました。
当時、彼女はスタジオの隅にあったピアノの陰で泣いていたこともありました。


こうしてようやく完成した作品は彼女の才能を世に知らしめるきっかけとなり、リリースから40年後の2013年には宮崎駿監督のジブリ映画『風立ちぬ』の主題歌にもなり、まさに“時代を超える”稀代の名曲として多くの人に愛され続けている。





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