ジャニスと同じく、1966年6月のモントレー(モンタレー)・ポップ・フェスティバルでのパフォーマンスがきっかけとなって、白人の間にまで一挙に評価が高まったのが、ソウル・シンガーのオーティス・レディングだ。
モンタレー2日目となった6月17日の夜、ブッカー・T&the MG’sを従えて登場したオーティスは、1曲目の「シェイク(SHAKE)」から、心の叫びや音楽的な衝動を全身を使って表現する唯一無二のパフォーマンスで観客たちを圧倒。その日の模様が映像に残されたことから、モントレーの伝説の一つとして後世へと受け継がれた。
アメリカにおける公民権運動が激しさを増していた1960年代の半ばに、「我々は、魂を持った、人間である」というメッセージが打ち出されてきたソウル・ミュージックの分野で、リトル・リチャードやサム・クック、レイ・チャールズといったシンガーたちが切り拓いた地平に、オーティスは登場してきた。
バンドと一体となってシャウトするオーティスの力強いステージを支えていたのは、メンフィス発のサザン・ソウルを生み出したミュージシャンたち、ブッカー・T&the MG’sである。リーダーのブッカー・Tは黒人だが、ギタリストのスティーヴ・クロッパーやベーシストのドナルド・”ダック”・ダンは白人という混成バンドだ。
あからさまな人種差別が残っていた南部にあって、メンフィスでは白人と黒人の若者たちが協力して音楽を作り、それらをヒットさせて全米はおろか、ヨーロッパも回ってツアーしていた。それは音楽の世界だからこそ起こり得た、奇跡のようなな出来事だった。
わずか5曲というモントレーでのセットリストにも、スティーブに教えられてカヴァーした白人のローリング・ストーンズが放ったヒット曲「サティスファクション」があった。オーティスの姿勢は、そのことからもうかがい知ることができる。
しかし、人種差別を超えて協力しあうことの大切さを教えてくれたという意味で、ソウル・ミュージックだけでなく、サマー・オブ・ラヴの時代の希望でもあったオーティスは、その年の12月10日、ツアー中に自家用飛行機の墜落事故によって26歳の若さで還らぬ人となってしまう。
スティーブとオーティスが作った「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」が、全米ナンバーワンのヒットとなったのは死後のことである。
オーティス亡き後、その「魂(SOUL)」はアメリカに住む黒人ばかりでなく、世界中の若者に受け継がれていく。「♪ガッタガッタ」という独特のシャウト唱法は、日本にも忌野清志郎という後継者を生んだ。
「オーティスが教えてくれた」という曲を作ったくらい、清志郎がオーティスをリスペクトしていたことはよく知られている。高校生の頃に授業をサボってよくトランジスタ・ラジオ聴いていたとき、海の向こうから届いたホットなナンバーにはオーティスの曲があったのだ。
1972年に発表したRCサクセションのセカンド・アルバム「楽しい夕に」には、「去年の今頃」という曲にオーティスの名前が出て来る。オーティスに教えられた「シャウト」は、清志郎にとっての希望でもあったに違いない。
初めてオーティスを聴いた時に「シャウト」を感じたという清志郎は、日本語のシャウト唱法を究めていき、1992年には憧れの地メンフィスまで出向いてブッカー・T&the MG’s と共に、ソロ・アルバム「Memphis」を録音。その後は日本のステージにも招聘して、共演を果たすことになるのだ。
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから
TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。