大好きなフォーク・シンガーのピート・シーガーを目標にして歌手になる決意を固めた高田渡が、「日本人として、日本語の表現を突き進む」と日記に書いたのは17歳の時だった。
中学を出てから東京・代々木にある印刷工場で働いた高田渡が、ブラザース・フォアのレコードを聞いたことでフォークソングに開眼したのはその1年前のことだ。
はじめはメロディの心地よさに惹かれたが、楽器のバンジョーに興味をもったことから、名手だったピート・シーガーを知って傾倒していった。
ピート・シーガーは先祖たちが残した歌を調べるためにアメリカ中をまわり、発掘したフォークソングを歌い継ぐことでそれらを世に広めた。
高田渡が残した1966年3月の日記には、ピートについての思いがこう記されていた。
彼のうたう歌には、うたい方には、[自分を出そう]というものがないのです。どことなくすいこまれていく、そして、歌そのものに魅力を感じさせるものがあります。これが本当の「人民の歌手・人民の中の歌手、ピート・シーガー」だと思います。
それと彼のひく5絃バンジョーはとっても好きです。もう1人のピート・シーガーといってもいいくらいです。
高田渡は毎日のようにレコードを聞いてはバンジョーの練習に精を出し、自分でも日本語の歌詞を書き始めるようになっていく。
心の師と思っていたピート・シーガーに、こんな手紙を書いて送ったのはその年の5月だった。
ぼくは「あなた」からフォークソングという大衆の歌を習い、学びたいのです。
ぼくはほんとうの大衆の音楽というものを身体と心で勉強したい、学びたいと願っています。
これから色々な事を学びとるための基礎の勉強をおしえてください。
ぜひおねがいします
ピート・シーガーから返信が送られてきたのは8月の末だった。
そこには、「ソングブックやレコードが勉強するための教材として役に立つだろう」、と書いてあった。
そして、君の足下には日本のフォークソングが転がってるはずだ、という示唆もあった。
足元に転がっているはずのフォークソングを求めて、高田渡は明治時代の演歌について調べていった。
そのうちにフォークソングと演歌を掛け合わせることで、新しい歌を作ることが自分のやるべきことなのではないかと思うようになる。
その頃、新宿にあるコタニ楽器で偶然に出会ったのが、往年のスター歌手だった灰田勝彦だ。
高田渡は歌について大切なアドバイスをもらうことになった。
それが1966年10月22日のことだと、当時の日記には記されていた。
灰田さんは「どう、やっている?」と聞いてきた。
僕は前、灰田さんの所に(コタニのウクレレ・ギター教室)バンジョーを習いにいっていた。
まだ、その頃は、バンジョーの教則本もなかったのでした。
そして、僕は
「えー、やってます。教則本とレコード(教則本付属の)でやってます。が、なにしろむずかしい楽器だから、苦労しています。学生の人たちは、みんなレコードでやっているそうです。テープに吹きこんで回転をおそくして音をとってやるそうですよ。こんなやり方でもいいのでしょうか?」
と灰田氏にたずねた。
ハワイ生まれの灰田勝彦は1936年(昭和11年)に立教大学を卒業し、日本ビクターと専属契約を結んで歌手になった。「ハワイのセレナーデ」で歌手デビュー、翌年の「真赤な封筒」が初めてのヒット曲になった。
日本で最初にカントリー&ウエスタン調の甘い歌声と、スチールギターの入ったサウンドやヨーデルで灰田は一世を風靡する。
ハワイ民謡などとも伝えられた「真赤な封筒」だが、実はカントリーのスタンダード・ソング「オー・バイ・ジンゴ(Oh By Jingo!)」の日本語ヴァージョンだった。
戦前の日本人が知らなかったアメリカの古い曲を、灰田は子供の頃に聴いて知っていたのだ。
灰田勝彦はやがて映画でも活躍するようになり、高峰秀子主演の『秀子の応援団長』に出演してうたった挿入歌の「燦めく星座」が大ヒットした。
戦後になってからも「東京の屋根の下」や「野球小僧」など、ポップス調の曲をヒットさせたほか、歌謡映画にも数多く出演し、1982年に亡くなるまで現役のエンターテイナーとして活躍した。
かつての生徒だった高田渡からの質問に、灰田勝彦はこんなアドバイスを伝えた。
声タイ模写のうまい人は、絶対に歌がうまくなりますよ。
江利チエミ、美空ひばりなんかの小さい時をよく知っているけど、彼女たちはとてもマネがうまいんですよ。
そのうちに、それぞれのよさをつかみ、だんだん自分のものを作っていくんですよ……。
だから、譜が読めなくても、そう気にすることはないですよ。
レコードなどを利用してやったほうが早いでしょう。
さらに灰田勝彦は、譜面が読めないことで独特の世界をつくり出したトランペッター、ルイ・アームストロングなどの例をあげて、高田渡に音楽を身につける方法についても教えてくれた。
高田渡はピート・シーガーも「譜面など気にするな」と言っていたのを思い出して、とにかくレコードを聴きこんで練習することで、歌を自分のものにするという道を進み始める。
2005年に高田渡が亡くなってから10年が経ち、息子の高田漣の編纂によって10代のころに書いていた日記が『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969』という単行本として出版された。
灰田からバンジョーを習っていたという貴重なエピソードは、そのなかで初めて明らかにされたものだった。
アメリカのフォークソングを日本語でうたうことによって、高田渡は「日本人として、日本語の表現を突き進む」ために、何もお手本になるものがないなかで、自分で模索しながら唯一無二の音楽を身につけていくことになった。
高田渡の先生がピート・シーガーだったとするならば、「譜面が読めなくても、そう気にしすることではないですよ」と、さりげない言葉で教えてくれた灰田勝彦は親切な先輩だった。
(注)なお本コラムは2015年10月22日に初公開された、『高田渡が灰田勝彦から教わった歌の秘訣、「江利チエミ、美空ひばりなんか‥‥』を改題、改訂したものです。文中の引用はすべて、下記の『マイ・フレンド―高田渡青春日記1966-1969』によります。
〈参考文献〉高田渡・著/高田漣・編『マイ・フレンド―高田渡青春日記1966-1969』(河出書房新社)
【高田渡特集】
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