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アッティカへの怒りからステージで「イマジン」を歌ったジョン・レノン

2024.12.10

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ジョン・レノンが、オノ・ヨーコとともにニューヨークに移住したのは1971年の9月のことだ。近隣には数多くのアーティストや活動家が住んでいて、新天地でジョンは彼らとの交流を楽しんだ。

「ニューヨークには素晴らしいアーティストが二、三十人はいて、僕のやってることをみんな理解してくれるし、みんな僕と同じような感性を持ってる。こんなところ(筆者注:イギリス)にいた後だと、あっちはまさに天国だね」


ビートルズが1966年にコンサートをやめてから、ほとんど人前で歌うこともなかったジョンは、ニューヨークに来ると少しずつではあるが、再びステージにも上がるようになっていく。

その頃のアメリカでは、ある事件が世間の注目を集めていた。カナダとの国境付近にあるニューヨーク州アッティカ刑務所で、9月9日に暴動が起きたのだ。

服役していた囚人の半数にあたる1000人が参加して、看守ら33名を人質に取ると、刑務所内での真っ当な扱いを要求した。

彼らの待遇は劣悪きわまりなく、非人道的なものだった。1200人しか収容できないところへ倍近い人数が押し込まれ、不衛生な室内でまともな食事は与えれず、シャワーは週に1回、トイレットペーパーは月に1ロールに制限されていた。

それに加えて、黒人は理不尽な暴力や拷問も受けていた。公民権運動によって、黒人に対する社会の意識は少しずつ変化していたが、世間の目が届かない塀の中では、依然として人種差別がまかり通っていたのだ。

不満を爆発させた囚人たちが籠城してから4日が経過した9月13日、ニューヨーク州知事のロックフェラーは現場から交渉にあたってほしいと要請される。

だが、囚人の要求を受け入れたら、他の刑務所でも暴動が起きるかもしれないとして、これを拒否したロックフェラーは武力行使を指示する。

午前9時46分、州兵たちは突入を開始。2分間に渡る一斉射撃を行ったことで28人の囚人と9人の人質が死亡。暴動は凄惨な結末を迎えるたのだった。

この暴動によって、囚人側の要求はいくつか通ったが、環境が改善したとはいえなかった。今度は看守による報復がはじまったのだ。

刑務所内での人種差別と非人道的な扱い、多くの命が奪われたことに怒りと悲しみを抱いたジョンは、その名も「アッティカ・ステート」という曲を書き上げる。

囚人たちに人権を 公平な裁きを
あらゆる囚人たちに人権を


アポロ・シアターでは12月17日、アッティカ刑務所暴動で亡くなった被害者の家族を招いて、チャリティー・コンサートが催された。アレサ・フランクリンも出演していたそのコンサートの途中で、司会がサプライズ・ゲストをステージに招いた。

「ジョン・レノン・アンド・ザ・プラスチック・オノ・バンド!」

観客はジョンとヨーコの登場に大いに喜んだ。温かい歓迎を受けた2人が最初に歌ったのは、もちろん「アッティカ・ステート」だ。「囚人は誰も殺してはいない、引き金を引いたのはロックフェラーだ」と歌うと、場内からは大きな歓声と拍手が上がった。


続いて「シスターズ・オー・シスターズ」、そして最後に弾き語りで「イマジン」が歌われた。ジョンの怒り、そしてやさしさが、家族を失った人たちの心を癒すのだった。

君は夢想家だと言うかもしれない
だけど僕だけじゃないんだ
いつの日か君も加わって
世界が一つになることを願う




参考文献:
『ジョン・レノン ザ・ニューヨーク・イヤーズ』ボブ・グルーエン著 中江昌彦訳(小学館)
『ジョン・レノン』レイ・コールマン著 岡山徹訳(音楽之友社)

ジョン・レノン『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』
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