エルトン・ジョンにとって初めて全米1位を記録したアルバムは、1972年の『ホンキー・シャトー』だった。
そこから1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、エルトン・ジョンは6枚のアルバムを連続で全米1位に送り込むという記録を打ち立てた。
本国のイギリスでも1973年度の年間チャートでは『ピアニストを撃つな!』が1位になるなど、彼の人気はこの頃に世界的なものになった。
「ベニーとジェッツ (やつらの演奏は最高)」は当初、「風の中の火のように(孤独な歌手ノーマ・ジーン)」 のB面としてリリースされる予定だった。それが急遽A面となったのは、デトロイトの黒人向けラジオ局が大量にオンエアしたことで評判になったからだ。
A面になった「ベニーとジェッツ (やつらの演奏は最高)」は200万枚のセールスを記録する大ヒットになり、「クロコダイル・ロック」に続いて2枚目の全米シングルチャート1位を獲得した。
そんな快進撃を続けていたエルトン・ジョンがニューヨークの空港でジョン・レノンと出会ったことから、ふたりは一緒に 「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru The Night)」 をレコーディングすることになる。
アルバム『心の壁、愛の橋(Walls and Bridges)』を制作していたジョンを、エルトンがスタジオに訪ねたのは夏の夜だった。
エルトンはレコーディング中だった「真夜中を突っ走れ」に、ピアノを加えたらどうかとアイデアを出した。
ジョンが喜んでそのアイデアを受け入れてくれたので、エルトンはピアノを弾いただけでなく、ヴォーカルもデュエットした。
それがジョン・レノンにとってソロで初めて全米1位のヒットになり、ジョンとヨーコの再会へともつながっていった。
さらにはエルトン・ジョンがジョン・レノンを誘ってコロラド州のカリブー・スタジオで、一緒にレコーディングをしようという話がまとまった。
そこでレコーディングされたのが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』 の中の 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」 である。
「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」はアルバム収録はなく、シングルだけでリリースされたが、「クロコダイル・ロック」と 「ベニーとジェッツ (やつらの演奏は最高)」に続いて、3枚目の全米シングルチャート1位となった。
ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』 からは、1枚もシングル盤が切られていなかったので、カヴァーによって『サージェント~』から全米1位のヒット曲が誕生したことになる。
それから8年後、ジョン・レノンは凶弾に倒れてニューヨークで死亡した。
エルトン・ジョンは1982年のアルバム『ジャンプ・アップ(Jump Up!)』で、ジョン・レノンの死を悼む歌を発表した。
サブタイトルの「Hey Hey Johnny」にあるとおり、1980年12月に亡くなったジョン・レノンに捧げた「エンプティ・ガーデン(Empty Garden)」は、ふたりが共演したニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンのことを指している。
ここで何が起きたんだろう?
夕暮れ時のニューヨーク
僕は何も生えてない庭を見つけた
それは生前にジョンが歌って演奏した、最後のステージになるのだった。
かつてライヴで一度限りの共演を果たした思い出があるその会場が、空虚な庭となってしまった時の流れと運命を、ジョンを “a gardener(庭師)” に例えて描いた歌詞は、さすがはバーニー・トーピンと思わせるものだった。
僕はノックし続ける でも返事はない
僕はノックし続ける ほとんど一日じゅう
そして君の名を呼び続ける
ジョニー 出て来いよ
また一緒にプレイしようよ”
エルトン・ジョンはソングライティングのパートナーだったバーニー・トーピンとの活動を、一時中断した1977年からヒットに恵まれなくなっていたが、ふたたびふたりのコンビが復活してヒットメーカーになっていくのである。
(参考コラム・27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演)
(参考コラム・メンバーの全員がLSDの洗礼を受けたビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」)