リヴァプールでブライアン・エプスタインが経営するレコードショップのNEMS2号店に、ビートルズの「マイ・ボニー」がほしいという10代の若者がやって来たのは1961年10月だった。
ビートルズも「マイ・ボニー」も知らなかったブライアンは、その若者が欲しがっていたのはドイツのポリドール・レコードが出したトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」で、イギリスのビートルズが演奏を担当していることを調べあげた。
そして彼らがリヴァプールのグループだということを知り、すぐ近くにあるキャヴァーン・クラブに出演していると分かって、足を運んでみることにしたのだ。
その時にブライアンが体験したビートルズの歌声と演奏には、怒りや悲しみといった感情をひっくるめて、抑えきれない魂の叫びが込められていた。彼らのパフォーマンスから伝わってきたのは青春の瑞々しさであり、生きていることの素晴らしさだった。
くったくのない笑顔、ときおり垣間見せるシニカルな表情、ユーモアのセンスにもブライアンは強く惹きつけられた。ブライアンは27歳で独身だったが、突発的にマネージャーになりたいと思ってそれを実行していく。
バンドのメンバーたちと話し合って、翌年の1月からマネージメント契約を結んだブライアンは、そこから最大の愛情を持ってビートルズの売り込みに奔走した。
そしてEMI傘下の弱小レーベルだったパーロフォンの制作責任者、ジョージ・マーティンに面会していい感触を得ることができた。
1962年の5月9日、自作自演のデモ音源を聴いたマーティンは、バンドのライブも観ていないのに、レコーディング契約の意思があることをブライアンに示した。そのときの印象について、後に著書「耳こそはすべて」のなかでこう振り返っている。
実のところ、あまりいいとは言えないと思ったんだ。だが、言葉にはできない、良質の粗削りさといったものが感じられた。それまで聴いたことのない種類の何かが。
6月6日にEMIスタジオで行われたデモ・テープ録りで、ラテンのスタンダード・ソングだった「ベサメ・ムーチョ」と、オリジナル曲の「ラヴ・ミードゥ」、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」、「アスク・ミー・ホワイ」の計4曲がレコーディングされた。
マーティンは、スタジオのコントロール・ルームでバンドのメンバーたちに録音した音を聴かせて、スタジオの仕組みやレコーディングのノウハウをていねいに説明した。
しかし、誰もが黙っていて何の反応も示さないので、「なにか気に入らないことでもあるかい」とメンバーたちに訊いた。その時いちばん若いジョージ・ハリスンが、「気に入らないのはあんたのネクタイ」と答えたという。
そこには小生意気ながらも、どこか憎めないユーモアがにじみ出ていて大笑いとなり、そのなかでお互いにうちとけていった。
その後、リヴァプールに足を運んで、キャバーン・クラブのライブを観たマーティンは、彼らの将来性を確信することになった。
それからはプロデューサーとして、メンバーたちの音楽に潜んでいた独創性を引き出し、多様な音楽的アプローチを具体的に教えることで、さまざまなオリジナル曲が生まれる手助けをしていく。
特に、ソングライターとしてのジョン・レノンやポール・マッカートニーの可能性に気づいて、ビートルズを輝かしい成功へと導いた功績は大きい。
そんなマーティンがデビュー・シングルを作るに際して、ひとつだけ危惧を抱いていたのはドラムのピート・ベストの技量だった。
そのことをきっかけにして、ブライアンとビートルズの3人は、ピートを外して新しいドラマーを迎え入れることに決めている。それがリヴァプールでは名の通ったドラマー、左利きのリンゴ・スターだった。
しかし、9月4日に行われたデビュー・シングルのレコーディングで、マーティンはリンゴのドラムに対しても首を傾げることになった。
<参照コラム>ビートルズの原点となったデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」から始まった輝かしい歴史
この時にマーティンはヒットするのが確実だと判断した楽曲「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」を用意し、ビートルズにのデビュー曲にするつもりでいた。
だが、ジョンとポールはレコーディングはしたものの、自分たちのオリジナルで勝負をしたいという気持ちを捨てきれなかった。
ジョンが口火を切って、こう切り出した。
「なあ、ジョージ」と彼は自分たちのプロデューサーに、無遠慮に話しかけた。「はっきりいってオレたち、この曲はクズだと思うんだ」
ジョージの驚いた顔を見て、彼はいくぶん表現をやわらげた。
「つまり、たしかにいい曲かもしれないけど、オレたちがやりたい路線とはちがってるってことさ」
「じゃあきみたちはいったいどういう曲をやりたいんだ?」困り顔のプロデューサーが訊いた。
眼鏡を外し、目を細めてジョージを見つめたジョンは、単刀直入にこういった。
「オレたちはどっかの誰かが書いたヤワな曲じゃなくて、オレたち自身の曲をやりたいんだ」
ジョージ・マーティンは、かすかに面白いという顔をした。
「じゃあいうがね、ジョン。きみたちがこれに負けないくらいいい曲を書いてきたら、喜んでレコーディングしようじゃないか」
ジョンは彼をにらみつけ、しばらく、不穏な空気が漂った。
礼儀正しい口調のポールが、マーティンに向かってこう訴えた。
「今のぼくらは、ちょっとちがった方向を目指したいと思ってるんです。それにぼくらの曲は、けっしてその曲に負けてないと思います。もしよかったら、ちょっとやってみたいんですが」
マーティンは沈黙を破り、「わかった。じゃぁその曲を聞かせてくれ」と穏やかな調子で言うと、メンバーとともにスタジオの中に入っていった。
ビートルズのメンバーはマーティンを取り囲むようにして、「ラヴ・ミー・ドゥ」のリハーサルを始めた。その場で歌と演奏を聴いたマーティンは、「今のままじゃなにかが足りない」と言って、ジョンにこんなアイデアを投げかけた。
「ジョン、きみはハーモニカを吹いていたな? なにか、ブルージーはフレーズを吹いてくれないか? なんならソロはどうだ?」
ここまでが9月4日の最初のセッションでの出来事で、当然だがリンゴはその2曲でドラムを叩いていた。しかし、マーティンには技量不足だとみなされて、11日に再び行われたセッションではベテランのセッション・ドラマー、アンディ・ホワイトが呼ばれた。
ドラムの座を奪われたリンゴは、「ラヴ・ミー・ドゥ」でタンバリンを叩く役割になったが、不平を言うことなくプロデューサーの指示に従った。
そして完成した「ラヴ・ミー・ドゥ」は、1962年10月5日にパーロフォンから発売されて、世界の音楽史の新しいページを開くことになった。
なお、「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」はその後、リヴァプールを中心に活動していたジェリー&ザ・ペースメイカーズのデビュー・シングルとして発売になり、1963年4月11日から3週連続で全英チャート1位を獲得するヒット曲になった。
発売当初の「ラヴ・ミー・ドゥ」は最高17位だったから、この楽曲を選んだマーティンの耳が正しかったことは明らかだ。
だが、自分たちの作品にこだわっていたビートルズの意向を尊重したことは、何にもまして実に賢明なるプロデューサーの判断であったといえる。
<参考文献>ジェフ・エメリック、ハワード・マッセイ著、奥田 祐士訳「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実 <新装版> 」(白夜書房)
「プリーズ・プリーズ・ミー」
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