ザ・バンドが残した伝説のコンサート『ラスト・ワルツ』は、1976年11月25日にカリフォルニア州サンフランシスコのウインター・ランドで開催された。
厳しいツアー生活に終止符を打つために企画されたこのコンサートには、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ニール・ヤングなど、ザ・バンドと縁のあるミュージシャンがたくさん集まっていた。
その中にはブルースの生きる伝説、マディ・ウォーターズの姿もあった。
その日から遡ること1年前、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムは友人のヘンリー・グローヴァーとともに自身のレーベルRCOを設立すると、その第1弾として幼少時代から憧れの存在だったマディ・ウォーターズをウッドストックに招き、アルバムをプロデュースしている。
ポール・バターフィールドやザ・バンドのメンバーも何人か参加した『マディ・ウォーターズ・ウッドストック・アルバム』は、グラミー賞のベスト・ブルース・レコード賞を獲得した。
そんな縁もあってマディもラスト・ワルツに出演することになったのだったが、その出演が危ぶまれるトラブルが次々と起こった。
最初のトラブルはマディを会場に連れてくるための飛行機代が、当初の予算に含まれていないことが発覚したことだった。
ふたつ目のトラブルは、コンサートの2日前である。
ザ・バンドのマネージメント・チームの1人がリヴォンの前に来て、「ゲストを大勢呼びすぎたので、出演者を削らなくてはいけない」と話しを切り出したのだ。
このコンサートの主導権は、バンドの顔であるロビー・ロバートソンとそのマネージメント・チームが握っていた(ただしロビー自身はこの件に関与していないと強く否定している)。
「それでみんなでじっくりと検討をし、そして、つまり、だからマディをはずそうということになった。そういうことで、きみからマディにそのことを言ってほしい」
飛行機の不手際に続いて、尊敬する偉大なブルースマンに対するこの上ない失礼な扱いに、リヴォンは怒りのあまり放心状態になったという。
だが、なんとか気持ちを落ち着けるとこう答えた。
「いいよ、話すよ。だが、それだけじゃない。
マディをつれてニューヨークにもどって、ニューヨークでラスト・ワルツをやるさ。
マディとぼくとでね。それで決まりだ」
リヴォンがいなくなったらコンサートは成り立たなくなる。
彼らは説得を諦めて、しぶしぶマディを出演させることにした。
しかし本番でもトラブルが起こった。
マディが歌う予定だった「マニッシュ・ボーイ」が、撮影クルーのフィルム・チェンジの時間に当てられていたために、カメラが回ってなかったのだ。(この日の模様は映画にするためにフィルムで撮影されていた)
演奏が始まってすぐにマディの重要性を感じ取った監督、マーティン・スコセッシは慌ててカメラを回すようにとインカムで指示を出したが、撮影クルーがフィルム・チェンジを終えた時は演奏の終盤になっていた。
しかし、幸運なことに1台のカメラだけが、マディの歌と演奏をおさえていたのだった。
そのカメラマンは撮影クルーに指示を出すスコセッシの叫び声にうんざりして、ヘッドフォンを外していたためにフィルム・チェンジのタイミングを知らなかったからだ。
フィルムは最後までもたなかったが、そのカメラのフィルムがなくなる5秒前に、もう1台のカメラが撮影を再開した。
こうして綱渡り的な状況の中で、マディの演奏はかろうじて途切れることなく、最初から最後までフィルムに収めることができた。
監督のスコセッシによれば、観客が足でリズムを取ることで会場全体が揺れ、まるで宗教の儀式のようだったという。
そして出演者の1人だったドクター・ジョンは、映画『ラスト・ワルツ』がDVDとなった際の音声解説でこう語っている。
「マディがいたからこそ特別な夜になった。そしてマディはあの曲で別の次元に到達していた。私にとってはこの夜のハイライトだ」
様々なトラブルが重なりあったにもかかわらず、互いに敬意を払う彼らの音楽には何の影響もなかった。
親子ほどに年齢が離れているザ・バンドをバックに、シカゴ・ブルースの父は雄々しく歌い上げて、コンサートを盛り上げるとともに彼らのルーツのひとつを明らかにしてみせたのだった。
(このコラムは2015年11月17日に公開されたものに加筆を施したものです)
引用元:
『ザ・バンド 軌跡』リヴォン・ヘルム著/菅野彰子訳(音楽之友社)
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから