ガンボという料理はアメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸一帯に広く浸透しているが、ニューオーリンズなどではライブやお祭りの屋台には必ず登場するソウルフードだ。
出汁のよく出たスープに野菜を入れて煮込み、それをライスにかけて食するという基本の定義はあっても、ありあわせの食材でつくった庶民の食べ物なので、定まったレシピというものはない。
スープのもとはエビやザリガニなどのシーフード、鶏肉や豚肉、ハム、ソーセージなど手に入るものなら何でもよく、地域やレストラン、家庭によって千差万別の作り方がある。
オクラを入れとろみをつけることはよく知られているが、それ以外にも小麦粉を油で炒めたルーや、フィレと呼ばれるサッサフラスの粉を使う方法もある。
この地域の土着のインディアンたちの食文化をベースに、新大陸の支配者となったフランス人の料理だったブイヤベースが掛け合わされたのが基本といわれる。
そこにスペインの入植者たちによってもたらされた野菜のピーマンやトマトなどの材料、さらに西アフリカから連れて来られた黒人奴隷たちが持ち込んだオクラが加わって、多様な文化が複雑に混じりあった料理になったのだ。
そうした歴史的な背景の複雑さは、ニューオーリンズの音楽にもそのまま表れている。
軍楽隊のマーチから黒人たちに広まったディキシーランド・ジャズ、ブルースやR&Bまで様々な音楽のテイストを盛り込んだファンキーな音楽が、ニューオーリンズからは生まれてきた。
それらをごった煮の音楽という意味で、「ガンボ・ミュージック」とも呼ぶようになったのは、ドクター・ジョンが1972年に出したアルバムの『GUMBO(ガンボ)』が、ニューオーリンズ音楽の総集編といった内容だったことで、そこから世界中に広まっていったからだ。
ドクター・ジョンことマック・レベナックは、1940年11月21日、ニューオーリンズに生まれたアイルランド系移民の白人だった。
祖父は顔を黒塗りにして旅まわりをするミンストレル・ショーの芸人で、父親はレイス・レコードと呼ばれるR&B やゴスペル、ジャズ、ポップスなどを売るレコード店を開いていた。
黒人音楽を身近に聴いて育ったマックは早熟で、7歳から仲間たちとバンドを組んで近所にあったレコーディング・スタジオにも入り浸るようになった。
ジェームズ・ブッカー、プロフェッサー・ロングヘアー、アラン・トゥーサンといったニューオーリンズ音楽の巨人たちとは、その頃から知り合いとなっていたという。
ニューオーリンズはR&Bやジャズだけでなくロックン・ロールの発信源でもあったので、リトル・リチャードが「トウッティ・フルッティ」を録音するところや、レイ・チャールズ、ファッツ・ドミノなどの演奏を目のあたりにしながら成長した。
1950年代中期にはまだ10代なのに、Ace Recordsにソングライターとして雇われて、ニューオーリンズの音楽制作シーンで歯車のような存在になり、プロデュ-サーやアーティストとして働いた。
黒人中心のブラック・ミュージックの組合、AFO (All for One)が設立された時には、白人にも関わらずメンバーの1人として参画している。
ジャンルや地域性を超えた多様な文化が混じりあって、まるで料理のガンボのように音楽が育まれたことがよくわかる。
しかし1961年にクラブでの演奏中に喧嘩に巻き込まれ、左手を銃で撃たれて薬指が不自由になり、ギタリストを断念してオルガンとピアノに転向した。
その頃、ニューオーリンズでは街の風紀の乱れを正そうと、風俗業界の取締りが大がかりに行われた。南部一の歓楽街はそのおかげで活気を失ったし、ミュージシャンたちは職を失って、街を離れざるを得なくなった。
オーティス・レディングやアイク・ターナーたちは、活動拠点をスタックス・レコードのあったメンフィスへと移した。
ファンク・サウンドの中心となっていた裏方の集まりだったAFOは、ニューオーリンズに見切りをつけてはるばるロスアンゼルスに向かった。
そして映画やレコードのスタジオ・ミュージシャンとして働いて、サム・クックの「シェイク」、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンド、オージェイズ、ボビー・ウーマックなど数多くのヒット曲作りの現場でレコーディングを行っていたのである。
そのおかげでロスにはニューオーリンズ直輸入のセカンドラインや、根太いファンク・ミュージックが根付いていった。
1967年にソニーとシェールの口利きによって、マックとAFOのメンバーたちはアトランティック・レコードと契約した。
ここで自分たちのレコードを作るチャンスを得て、ニューオーリンズ独特の宗教「グリグリ」(ヴードゥー教の一種)における有名な祈祷師、ドクター・ジョンをテーマにした作品を作った。
その時にヴォーカルを担当する予定だったロニー・バロンが、録音当日に急に来れなくなったので、マックが急遽ヴォーカルを担当することになり、それをきっかけにドクター・ジョンと名乗ることにしたという。
デビュー・アルバム『グリ・グリ(Gris-Gris)』は、南部的でありながらもサイケデリックな雰囲気で、ヒッピー・ムーブメントという時代の波にも合ってカルト的に浸透した。
続いてドクター・ジョン1940年~50年代にかけてニューオーリンズから生まれた名曲の数々を、愛情を込めて現代に甦らせたアルバム『ガンボ(Dr.John’s Gumbo)』を1972年に発表する。
アルバムのリード曲となった「アイコ・アイコ(IKO IKO)」が、南部にはこんな音楽が存在しているんだということを広める役割を果たしていった。
ニューオーリンズに伝わってきた「Jock-A-Mo」は、1965年にディキシー・カップスによって「アイコ・アイコ」としてヒットしてから有名になった。
ドクター・ジョンはそれをセカンド・ラインのリズムを強調したアレンジにして、独特のしわがれ声で世界中に広めていった。
マルディグラ・インディアンを題材にしたこの歌は、マルディグラ(謝肉祭の最終日)にインディアンの扮装をしたグループ同士が練り歩く様子が歌われる。
その後もシンディ・ローパーが1986年に、2枚目のアルバム『トゥルー・カラーズ(TRUE COLORS)』でカバーしたことで、若い世代にも発見された。
また、1988年の第61回アカデミー賞で作品・監督・主演・脚本賞を受賞した映画『レインマン』では、1982年にリリースされたベル・スターズのヴァージョンがオープニングに使われて、世界中に広まった。
(注)本コラムは2015年2月6日に公開されたものに加筆しました。
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