ロサンゼルスとサンフランシスコの中間に位置する海沿いの都市、モントレー(モンタレー)。穏やかな気候と美しい風景からリゾート地として親しまれ、20世紀のアメリカを代表する作家、スタインベックを筆頭に多くの芸術家が暮らしていたことでも知られている。
そんなモントレーが、かつてない緊張と熱狂に包まれたのは、1967年6月のことだった。
最初にアイディアを思いついたのは、アラン・パリザーという若者だった。アラン生粋のロックファンで、コンサートを企画したり、カメラマンとして活動したりしながら、ロサンゼルスのロックシーンに身を置いていた。
1966年9月、モントレー・フェアグラウンズで毎年開催されるモントレー・ジャズ・フェスティバルを観たアランは、友人らとともに同じ場所でロックのフェスティバルをやろうと計画し始める。
彼らが真っ先に出演させたいと思ったのは、「夢のカリフォルニア」や「アイ・ソー・ハー・アゲイン」を大ヒットさせていたママス&パパスだった。
出演をオファーされたママス&パパスのジョン・フィリップスは、その計画を気に入り、プロデューサーのルー・アドラーも加わって計画を膨らましていく。
そして、3日間に渡る過去最大規模のフェスというアイデアが生まれると、開催日まであまり時間がない中、急ピッチで準備が進められていった。
6月17日、モントレーの町はかつてない緊張感に包まれていた。当時のヒッピーに対する世間のイメージは、集団で自堕落な生活を送るLSD常用者といった感じであり、そんなのが何万人も来ると言われているのだから、住民や警察が不安になるのも無理はなかった。
そんな不安などお構いなしに、会場であるモントレー・フェアグラウンズには続々と観客が集まってきた。そして夜の9時、ジョン・フィリップスの紹介でアソシエーションがステージに現れ、ついに過去最大のロック・フェスは幕を切って落とされた。
初日はアニマルズやサイモン&ガーファンクルが登場し、会場は大いに盛り上がった。続く2日目にはバーズやジェファソン・エアプレインといったバンドが熱演をし、中でもまだ無名だったジャニス・ジョプリンを擁するビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーと、オーティス・レディングのパフォーマンスは、2日目のハイライトとして語り継がれている。
モンタレー・ポップ・フェスティバルが生んだ伝説~ジャニス・ジョップリンの神がかりのような熱唱
モンタレー・ポップ・フェスティバルが生んだ伝説~オーティスから清志郎に受け継がれた希望と勇気
最終日となる3日目には主催者であるママス&パパスやサンフランシスコで絶大な人気を誇るグレイトフル・デッドが登場したり、イギリスから海を渡って参加したザ・フーが楽器を壊して観客を圧倒させるなど、初日と2日目を上回る盛り上がりを見せた。
しかし、このフェスティバルを伝説にしたのは、やはり最終日に登場したジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのパフォーマンスだろう。
それはフェスティバルに参加するアーティストを集めていた頃。ジョン・フィリップスはロンドンに住むポール・マッカートニーに会いに行った。
もし世界的なスターであるビートルズの出演が決まれば、イベントは成功したも同然である。しかし、ビートルズは前年の夏を最後にライヴ活動をやめた上に、『サージェント・ペパーズ~』を制作している真っ最中だった。
ポールは、「ぼくらは駄目だけど、ちょうどいい男がいる」と1人のミュージシャンを紹介した。その男こそジミ・ヘンドリックスだった。
ブライアン・ジョーンズの紹介でステージに上がったジミは、持ち前の人間離れしたギター・テクニックに加え、ギターを歯で弾いたりして観客を驚かせた末、最終的にはギターに火をつけるというパフォーマンスで、会場をかつてないほど熱狂させた。
3日間に渡る狂宴は大きな事件が起こることなく無事に終わり、その年の終わりにはフェスの模様を記録した映画『モントレー・ポップ・フェス』が公開された。
これによってモントレー・ポップ・フェスティバルは世界中の人たちに知られることになり、その後のロック・フェスの基盤となるのだった。
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