スティーリー・ダンがツアー活動を封印し、スタジオでの楽曲制作に専念するようになったのは1974年のことだった。
グループの中心であるドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの2人は、元々ソングライターコンビとしてアーティストに楽曲を提供する仕事をしていた。
だが、流行とかけ離れた彼らの音楽を歌おうというアーティストはほとんどいなかった。それならば自分たちで曲を発表しようということでメンバーを集め、1972年にスティーリー・ダンを結成したのである。
1974年、3rdアルバム『プレッツェル・ロジック』をリリースした彼らは、そのプロモーションもかねてツアーへと出る。だが、フェイゲンとベッカーは、ライヴの出来にムラがあることに不満を抱いていた。それに加えてフェイゲンは自分の歌が好きではなく、前々から人前で歌うことにストレスを感じていた。
フェイゲンとベッカーはスタジオでの楽曲制作に専念したいと考え、他のメンバーはもっとライヴをしたいと思っていた。その結果、フェイゲンとベッカー以外のメンバーはバンドを脱退し、スティーリー・ダンは1974年7月5日のステージを最後にライヴをしなくなるのだった。
その後『彩(エイジャ)』や『ガウチョ』といった傑作を生み出していった2人だが、1981年にはベッカーの深刻なドラッグ依存などを理由にコンビ解消を発表する。
フェイゲンはソロ活動をスタートさせ、ソロ・アルバム『ナイトフライ』をリリースするなど、精力的に活動を続けた。
ベッカーは療養のためハワイに移り、そこで家庭を築いて平穏な日々を送っていたが、数年後には音楽活動を再開し、リッキー・リー・ジョーンズやチャイナ・クライシスのプロデュースを手掛けている。
スティーリー・ダンが活動を停止してから10年が過ぎた1991年。フェイゲンのライヴにベッカーが参加し、スティーリー・ダンの楽曲を演奏したことがきっかけで、2人はスティーリー・ダンとしてツアーを回りたいと思いはじめる。
1970年代とは違い、2人は最高のバンドを用意することができたし、ライヴ会場における音質も格段に向上していた。こうしてスティーリー・ダンの活動再開、そして約20年ぶりとなるツアーは実現するのだった。
再結成ツアーは1993年の夏からスタートし、翌1994年の4月には初の来日公演も実現している。そして1995年には、およそ1年に渡るツアーの模様を収めた初のライヴ・アルバム、『アライヴ・イン・アメリカ』がリリースされた。
録音された膨大なテープの中から、フェイゲンとベッカーの2人が絞り込んだ選りすぐりの10曲だ。このアルバムのコンセプトについて、フェイゲンはブックレットでこのように説明している。
「デジタル編集とクロスフェイドを使用したことで、二夏にわたるさまざまなショウのパフォーマンスから栄光の一夜を具現化する効果を生み出した」
またベッカーも、インタビューでこのように話している。
「自分たちが一番気に入っている演奏を選び、次にアルバムをひとつのセットとしてみたときにバランスが取れているかどうかを考えた。流れがなくては何にもならないからね」
『アライヴ・イン・アメリカ』は「バビロン・シスターズ」で幕を開け、2曲目の「緑のイヤリング」が終わるとホーンセクションが鳴り止まぬうちにドラムが入り、3曲目の「菩薩」へとなだれ込んでいく。
しかし、ツアー中に「バビロン・シスターズ」が1曲目に演奏されたことはなかったし、2曲目と3曲目は別の日に演奏されたものである。それはまさしくアルバムの中にのみ存在する架空の一夜なのだ。
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参考文献:
『THE DIG Special Edition スティーリー・ダン』(シンコーミュージック)