この炭坑節(たんこうぶし)は、福岡県に伝わる民謡である。
現在の田川市が発祥で「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ♪」のフレーズで全国的に知られるようになり、今では盆踊りの定番曲となっている。
この炭坑節、もともとは盆踊りの歌ではなく、座敷唄として歌われるような“春歌”だったともいわれている。
この歌が生まれた背景には一体なにがあったのだろう?
まず、この歌のルーツは炭鉱労働者による仕事唄と言われている。
重労働で、落盤など生死に関わる事故も絶えないなか、切なさや苦しみを紛らわすため口ずさんだ。
それが大衆歌に変遷し今に伝わっている。
それはまるで、その昔ミシシッピ川とヤズー川に挟まれた地帯にあったアメリカで最初の綿農園ドッケリーファームで生まれたブルースの生い立ちと重なる部分がある。
農作業の際に歌われた「ワークソング」または「フィールドハラー」と呼ばれる労働歌がブルースの原型ということは広く知られている。
それらは、過酷な労働をほんの少し我慢しやすくしてくれただけだったが、コール&レスポンス(呼びかけ応答)と呼ばれる歌詞を繰り返す手法は、やがてブルースに受け継がれることとなる。
【音故知新②〜ブルースってどんな音楽?〜】
http://www.tapthepop.net/news/42592
この炭坑節もまた、ブルースと似たようなルーツを持つという。
福岡県の田川市は、明治時代の末から三井を中心とした炭鉱の街として繁栄し、多くの労働者たちが暮した土地である。
筑豊地方にはかつて、大小合わせて233もの炭鉱があり、明治、大正、昭和と石炭を八億トンをも産出し、炭鉱ブームに沸いた時代があった。
作家・五木寛之の『青春の門』の舞台としても有名である。
この歌は、田川郡、伊田村(現、田川市)出身の小野芳香によって、1910年(明治43年)につくられたと言われている。
その後、歌詞のフレーズを“三井炭鉱”“三池炭鉱(福岡県大牟田市)”“うちのおヤマ”または自分の炭鉱の名に入れ替えて、名もなき労働者たちによって各地で歌い継がれてゆくこととなる。
さらにさかのぼると、江戸・元禄期に田川で歌われた「番田河原唄」という歌が起源だとも言われている。
それらをはじめとして、昭和初期に至るまで「ゴットン節」「石刀唄」「コリャコーリャ節」など、作詞作曲者の名が残らない歌がまるで鉱山の地中から湧くように生まれた。その数は記録されているだけで数百に及ぶとも言われている。
「いやな人繰り邪険の勘場 情け知らずの納屋頭」(ゴットン節)といった労苦を歌ったもの。
「ザリガニ獲ってなんするの ゆうげのかゆのさいにする」(ザリガニのうた)と鉱山で働く家の貧しさを表したもの。
苦難だけが題材ではなく、男女の恋愛を小気味よく歌ったり、卑猥な歌もあったりしたという。
炭鉱で生きた一人一人の暮らしぶりが歌の中で垣間みれるようだ。
明治から大正にできた幾つかの歌が混ざり合って、昭和の初期(戦前)に座敷唄としてレコードが発売されてから、東京方面で流行するようになり、節回しが変化して現在盆踊りでよく唄われる形となってゆく。
1948年(昭和23年)には、コロムビアレコードで赤坂小梅、ポリドールレコードで日本橋きみ栄、テイチクレコードで美ち奴、キングレコードで音丸が同曲をレコードに吹き込んだが、赤坂小梅のみが座敷唄の節回しであり、あとの3人は流行唄の節回しで唄っている。
各社ともレコードは大ヒットし、当時の傾斜生産方式による石炭増産の風潮もあって知名度はうなぎ上りに高まってゆく。
炭労が総評の基幹労組だった昭和30年代には,春闘で炭労幹部が団交のため上京して夜の銀座のバーに乗り込むと、ジャズやワルツの演奏を止めて炭坑節を演奏したという逸話があるほどだ。
さらには、炭坑節をもとにした「新炭坑節」「新々炭坑節」「月が出た出た」という歌謡曲も作られヒットしている。
炭坑節が大流行する中で、一部の出版物や歌詞カードに誤記があったことから、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱(1997年3月30日閉山)で生まれたという誤解が広がった。また歌詞中に登場する煙突とは、三井田川炭鉱の象徴でもあった“二本煙突”のことであり、現在は田川石炭記念公園にて大切に保存されている。