どこかノスタルジックなムードが漂う、活気溢れるメロディー。つかこうへい作・演出の戯曲で、1982年に映画化された『蒲田行進曲』(松竹)の主題歌として知る人が多いのではないだろうか? 今日はこの歌のルーツと誕生の経緯をご紹介します。
この歌の原曲は、1925年にニューヨークのブロードウェイで初演されたオペレッタ『放浪の王者』劇中歌の一つ、「Song of the Vagabonds」である。
この舞台は、アイルランドの著作家・政治家J.H.マッカーシーの小説『もし私が王ならば』に基づくオペレッタで、15世紀のパリが舞台となっている。
その内容は実在の泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンとルイ11世の恋のさや当てを描いた物語だった。この劇中歌を手掛けたのは、チェコスロバキアのプラハ出身でニューヨークで活躍したルドルフ・フリムルというピアニスト・作曲家。
当時、まだ日本ではなじみの薄かったブロードウェイ作品の劇中歌に、日本語をのせて「蒲田行進曲」の歌詞を誕生させた男がいた。
彼の名は堀内敬三。多くの海外楽曲の訳詞・作詞を行っており、ドヴォルザークの名曲「遠き山に日は落ちて」は特に有名である。
1929年に公開された松竹映画『親父とその子』の主題歌として発表されたのがこの「蒲田行進曲」だった。川崎豊と曽我直子のデュエット曲としてコロムビアから発売されたレコードが大ヒットとなり、その年の流行歌となる。
この“蒲田”と“キネマ”という2ワードが何度も出てくる印象的な歌詞は、一体どのような経緯で生まれたのだろう?
当時、堀内敬三は松竹蒲田撮影所の音楽部に嘱託(しょくたく)社員として務めていた。ある日、松竹の関係者から一枚のレコードを渡されて、作詞・編曲の依頼を受ける。「これを新作映画の主題歌としてアレンジして欲しい」
堀内は、何度もレコードに針を落としながら、歌詞のイメージを手繰り寄せることに没頭した。原曲の「Song of the Vagabonds」の内容と松竹の新作映画との間には、なんの接点もなかったというから難題である
。
そんな松竹の“無茶ぶり”に応えて、彼は何とか「蒲田行進曲」の歌詞を完成させる。同曲を主題歌とした映画『親父とその子』(1929年)が制作された蒲田撮影所は、1920年(大正9年)から1936年(昭和11年)まで、東京の京浜東北線の蒲田駅東口にあった。
松竹キネマの現代劇映画のスタジオとして稼働した通称“松竹蒲田”は、ハリウッドから技術者を招いたり、スターシステム(高い人気を持つ俳優を起用して作品制作を総合的に行っていく方式)を導入するなど、日本映画黎明期をリードする撮影所となった。
その後、同撮影所は神奈川県大船に移転したが…2000年に閉鎖されている。
日本の名作シリーズ映画『男はつらいよ』など、この“松竹蒲田”の流れを組む撮影所で製作した映画は1,200本を超えるという。
この歌は、そんな歴史ある松竹キネマ(現・松竹株式会社)蒲田撮影所の所歌として、愛され続けきたのだ。現在でもJR東日本京浜東北線蒲田駅では発車メロディーとして流れている…。
映画「蒲田行進曲」
サウンドトラック「蒲田行進曲」
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