♪「Give Peace a Chance(平和を我等に)」/プラスティック・オノ・バンド
もし変えようと思うなら。
本当に変えようと思うなら。
世界は変えられる。
ベトナム戦争や人種差別、世界にあふれる貧困や暴力と闘うために何ができるのか?
その想いをジョン・レノンとオノ・ヨーコは大胆な方法で表現してみせた。
「戦争をする代わりにベッドで過ごそう、髪を伸ばそう、平和になるまで」と、新婚旅行のベッドで抱き合ったままメディアに登場したのだ。
斬新な意見広告の先駆けともなったメッセージ“HAIR PEACE. BED PEACE.”は世間を驚かせ、若者たちを戦争反対へと動かす大きなムーブメントとなっていく。
その影響力の大きさに、当時のニクソン政権は脅威を感じ、FBIの監視や盗聴が始まる。
それは、世界最強の国家権力アメリカ政府がアーティストに対して行使した“異例の圧力”だった。
1969年3月、共に前パートナーと離婚したジョンとヨーコは、ジブラルタル(スペイン・イベリア半島南端の英領)で結婚式を挙げ、そのままオランダのアムステルダムで、あの有名なパフォーマンス“ベッドイン”を行った。
それは、世界各国を巡り報道陣を招待して、ベッド上から3日間インタビューに応じ、世界中に平和のためのメッセージを発信するという“アクション”だった。
時代はべトナム戦争の真っただ中。
二人は愛とユーモアに満ちたパフォーマンスで“戦争”に批判を浴びせた。
その後、二人はこのパフォーマンスをアメリカに持ち込もうとしたが、政府に入国を拒否される。
そこで二人は急遽“ベッドイン”の場所をカナダのモントリオールに変更。
彼らはそこからアメリカに向けて、テレビ電波に乗せ、平和のメッセージを発信したのだ。
それは、当時アメリカで多く普及しつつあったテレビを利用した新しいパフォーマンスだった。
その直後の7月、プラスティック・オノ・バンドの名義でシングル「Give Peace a Chance(平和を我等に)」をリリース。
2ヶ月後には、ビートルズのアルバム『Abbey Road』が発表されるが、この時すでにジョンは他のメンバーへビートルズからの脱退を告げていた…。
■映画「PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン」予告編
映画『PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン』(2006年)で、ベトナム戦争に反対してホワイトハウスを囲む数万人と共に、ジョンとヨーコが「Give Peace a Chance(平和を我等に)」を繰り返し歌うシーンは圧巻!
僕等が言いたいことは、平和にも機会(チャンス)を与えろってこと!
僕等が言いたいことは、平和にも可能性(チャンス)を与えろってこと!
1969年6月1日。
カナダのモントリオールにある『クィーン・エリザベス・ホテル』の1742号室で、この“歴史的なレコーディング”は行われた。
ジョンとヨーコによる一連のアクションに賛同する各界の才人達が集まり、このメッセージ“All we are saying is give peace a chance”を共に歌ったのだ。
そこには、アレン・ギンズバーグ(詩人)、フィル・スペクター(音楽プロデューサー)、ティモシー・リアリー(心理学者)と妻のローズマリー、ジョセフ・シュワルツ(化学者)、ペトゥラ・クラーク(歌手)、トミー・スムーザー(ミュージシャン)、ディック・グレゴリー(コメディアン)、マレー・ザ・K(ラジオDJ)、デレク・テイラー(アップル社の広報)、その場にいた報道陣(コーラス)などが参加したと記録されている。
また、この曲のクレジットはジョン=レノン&ポール=マッカートニーとなっているが、これはビートルズのデビュー前に「どちらか一方が作った曲でも二人の共作名義にする」という取り決めを結んでいたせいであり、実際にはジョン単独の曲である。
まだビートルズ解散以前の曲であるが、実質的なジョンのソロ・デビュー作品と云える楽曲だ。
この歌の誕生から45年が経つ今も、世界のどこかで戦争・紛争・貧困に苦しんでいる人や子供達がいます。
日本が敗戦した第2次世界大戦が終わって、今年で69年が経ちます。
今、世界は、この国は何処へ向かおうとしているのでしょうか?
時代を超えて、国境を越えて…。
ジョンの歌声が、私達に平和の意味を問いかけてくる。
僕等が言いたいことは、戦争をするチャンスを与えるなってこと!