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兵隊が戦争に行くとき〜フランスで生まれた反戦歌

2018.06.10

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銃に花を飾り 太鼓を叩きながら彼は行く
二十歳で恋する胸はずませて
准士官が彼の歩調と脇腹の装具を監視する
兵隊が戦争へ行くとき 
雑のうカバンには一番大切な物が入っている
兵隊が戦争から帰ってくるとき 
雑のうカバンには汚れた下着が入っている


この「Quand un soldat(兵隊が戦争に行くとき)」は、フランスを代表するシンガーソングライター、フランシス・ルマルクが1952年に作った楽曲で、あのエディット・ピアフの愛弟子イヴ・モンタンが歌唱したことにより広く知られるようになる。
ルマルクといえば、グリム童話『三つの願い』をベースに作った「La grenouille(蛙)」や「Le petit cordonnier(小さな靴屋さん)」のように、メルヘン調の作品を多く残したシャンソン作家だ。



ところが、その一方で戦争の愚かさを訴えるシリアスな反戦歌も綴っていたという。
彼がこの歌を作詞作曲したのは、第2次世界大戦後に起こった第1次インドシナ戦争(1946〜1954年)の最中だった。
1945年、日本が敗戦し、仏印(フランス領インドシナ)に進駐していた日本軍が撤退すると、ホー・チ・ミンの率いるベトナム独立同盟(略称ベトミン)が独立戦争を起こす。
それはベトナム民主共和国の独立をめぐって、フランスとの間で戦われた戦争だった。
当時、フランスの軍が戦地へと送り出される中…多くの若い兵士達が手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断されたり、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した。
フランス本国は、そんな彼らの姿に大きな衝撃を受けた。
1949年に本国軍徴集兵の海外派遣を禁止する法律が制定され、その後は、フランス人志願兵と外人部隊兵が戦地に赴くこととなった。
結局フランス軍は1954年5月7日、ラオス国境に近いディエンビエンフーでベトミン正規軍の包囲攻撃を受けて降伏する。

8年間も続いた戦争で、フランス軍は7万5千人、フランス軍以外のフランス連合軍は1万9千人が戦死し、7万8千人が負傷したという。
一方ベトナム独立同盟(ベトミン)側は、兵士50万人の死傷者と25万人の民間人戦死者を出したという。
「戦争」…それは、他の国・地域を武力で占領し、富を収奪し、住民を抑圧するという押し込み強盗のような行為。
多くの若者が死んだり、障害者になったり、精神バランスを崩して廃人同様になったりして帰ってくることにルマルクは大きな衝撃を受ける。
そんなやり場のない怒りや恐怖を抱えながら、彼は生活のためにパリの出版社に勤める日々の中でこの歌を作ったという。



ベトナムはフランスからの独立を獲得するが…戦いは終わらなかった。
共産主義の浸透を恐れたアメリカが戦いを肩代わりし、南ベトナムに作った傀儡政権と共に、北ベトナムを攻撃し続けたのだ。
その結果、アメリカは10年以上も続く泥沼の戦争を経験することとなる。
“戦う理由”も不明確なまま続いた戦争がもたらした犠牲は、あまりにも大きかった。
アメリカ側の戦死者5万8千人、戦傷者 30万人。
ベトナム側の戦死傷者300万人、民間人の被害400万人超、行方不明者30万人超、枯れ葉剤の被害者100万人、精神病者600万人、難民1千万人…そしてベトナムに投下された爆弾量1400万トンという記録が残っている。

戦争は…戦争は…
愛の誓いなどおかまいなしだから
戦争は太鼓の音しか愛さない

兵隊が戦争へ行くとき 
たくさんの歌と花々が足の下にある
兵隊が戦争から帰ってくるとき 
それはただ運がよかった ただそれだけのこと…


この曲が発表されると、フランス政府は兵士たちの士気を損なうとして放送禁止処分とする。
しかし、政府の意に反して、フランス国民の口から口へ、耳から耳へと伝わり広まってゆく。
人々の反戦感情は、フランス国内にとどまらず、世界各国にまで飛び火していったのだ。
今も、この世界から武器がなくなることはなく…戦争の悲劇は繰り返されている。
しかし、我々が暮すこの日本で流行し、若者たちが口ずさむ歌からは、戦争の愚かさや悲惨さを訴える言葉は消滅しつつある…


<引用元・参考文献『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』竹村淳(著)/アルファベータブックス>

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