1943年12月8日、彼はフロリダ州メルボルンにあるケープカナベラル空軍基地の近くで生まれた。
出生名はジェームズ・ダグラス・モリソン。
父親が海軍少将という軍エリートだったので、彼の家庭は比較的裕福な方だった。
彼がまだ生後6ヶ月の時に父親が太平洋戦線に出て行ってしまったため、母親は幼い息子を連れて同州の西海岸に位置する街クリアウォーターに移り住む。
そこは父親の両親が暮らす家だったので、母親は肩身の狭い日々の中で彼を育てたという。
終戦から一年が過ぎた1946年の夏、彼の父親は家族のもとへ帰還してくる。
ほどなくして父親が軍から言い渡された任地はワシントンDCだった。
その後すぐにニューメキシコ州の中央部に位置する街アルバカーキへと転居する。
こうして引っ越しを繰り返す中、彼が4歳の時に妹が誕生する。
さらに彼が5歳になった年に、父親が仕事で航海に出ることとなる。
残された家族は、カリフォルニア州のロスアルトスに移り住む。
彼が初めて学校に通い始めたのも、弟が誕生したのもこのロスアルトスだった。
彼が7歳の時、航海から戻った父親が再びワシントンDCでの任務となり、やっと住み慣れた街をあとにする。
その一年後、父親が朝鮮に転属となったため、残された家族はロサンゼルスの近くの小さな街クレアモントでようやく腰を落ち着けることとなる。
小学校時代の彼は、やや太っているとはいえ、なかなかハンサムな少年だったらしく、頭も良く、礼儀正しく、先生からも可愛がられていたという。
「5年生の時は級長に選ばれたよ。だけど、その頃から少し汚い言葉を使ってみたり、両手離しで自転車を乗り回すような危ないことをしたりもした。」
1955年、父親が朝鮮から帰国すると同時に一家は再びアルバカーキへと引っ越す。
度重なる引っ越しや転校のせいで、彼は自分の部屋に閉じこもって読書に耽るようになる。
アルチュール・ランボーを筆頭に、ウィリアム・S・バロウズ、アレン・ギンズバーグ、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、シャルル・ボードレール、モリエール、フランツ・カフカ、アルベール・カミュ、オノレ・ド・バルザック、ジャン・コクトー…彼は読書を通じて多くの作家や詩人からインスピレーションを得るようになる。
「夜になると一人で部屋に閉じこもるんだ。何時間もかかって読み続けた本を閉じながら、真夜中にフーっと大きな息をつく。翌朝、再びその本をとりあげる。そして気に入ったフレーズ(言葉)を大学ノートに書き込んでいくんだ。」
彼は14歳の時に、とても夢中になった本があったという。
ジャック・ケルアックが放浪体験を元に書き上げた小説『On the Road(路上)』だった。
「あれは1957年の冬だったよ。ビートジェネレーションを題材にした内容だった。」
また高校時代の英語教師が読書家だった彼との間で、こんなエピソードがあったという。
教師はその時のことをこんな風に語っている。
「彼が16世紀や17世紀の悪魔学に関する本のことをレポートに書いてきた時に“本当にそんな本があるのか?”と疑ったことがありました。ちょうどアメリカ議会図書館に行くことになっていた別の教師がいたので、たのんで確認してもらったところ、確かにその本は存在していました。彼はおそらくアメリカ議会図書館でしか読めないような本も読んでいたんだと思います。私はそのレポートをもう一度読み返して感銘を受けました。」
その頃から彼は作家を志すようになる。
ランボーに関する逸話や、ボードレールやアレン・ギンズバーグ、ディラン・トーマスなど苦悩の中に自己主張を押し通した芸術家たちの作品が彼の心を捉えて離さなくなっていた。
新聞の切り抜きを集めたり、雑誌の広告、会話の断片などを大学ノートに書き留めることが日常となってゆく。
高校2年になってからは、詩の量が増えていったという。
その大学ノートは、彼の心を映す鏡でもあった。
ドアーズの初期の楽曲「Horse Latitudes(放牧地帯)」などは、そのノートから生まれたものだった。
高校卒業後、彼はフロリダ州立大学に入学する。
当時、哲学や詩にのめり込んでいた彼は1964年の1月、家族の反対を押し切ってUCLA(カリフォルニア大学ロス校)の映画学科に編入する。
後にドアーズの楽曲「The End」を映画『地獄の黙示録』(1979年)の挿入歌として使用したフランシス・F・コッポラ監督は、彼と同じ教室で学んだ同窓生でもある。
世界中のロックファンを魅了したドアーズの伝説は、その大学にいたレイ・マンザレク(オルガン・ピアノ)との出会いから幕を開けることとなる…
<引用元・参考文献『ジム・モリスン 知覚の扉の彼方へ』ジェリー ホプキンス(著)ダニエル シュガーマン(著)野間けい子(翻訳)/シンコーミュージック>