『ワイルド・スタイル』(Wild Style/1983)
ある音楽ジャンルの歴史を人間の年齢に例えた場合、今のロックは、すでに60歳を過ぎて間もなく年金生活の仲間入りといったところだろうか。1950年代半ばに産声を上げたロックンロールは、米国の黒人にとっては数あるダンススタイルの一つにしか過ぎなかったが、英米の白人にとっては大きな意味を持っていたのはその後の流れを見ても明らかだ。
大雑把な言い方をするなら、ロックは10代に入って急激に成長し始め、ティーンエイジャーとなって長髪化した60年代後半〜70年代前半に黄金期を迎え、20代でビジネスを覚えたり(英国では破壊運動が起きたが)、30代でテクノロジーやMTVを取り込む遊び心も身につけた。一転して40代はオルタナティヴでストイックに原点回帰。50代以降は落ち着いた大人の道を歩んでいる。
ロックが若者を象徴する時代はとっくに終わったし、この先何か大きなムーヴメントが起こる確率は低い(信じたいけれど)。いずれはジャズやブルーズやソウルのように、細く長く愛される音楽スタイルになっていく可能性が高い。
その点、ヒップホップはまだ成長を止めていない。試行錯誤しながら現在新光景を塗り替えている。年齢にすると40歳前後。脂の乗り切った時期だ。ヒットチャートを見てもヒップホップが聴こえてこない週はないし、むしろゼロ年代以降は完全に主流をなしている。「ヒップホップは音楽ではなくゲーム」という感覚を持ったデジタル・ネイティヴ世代には、なくてはならない“遊び”となった。
そんなヒップホップもロック同様、これまで様々な人生を歩んできた。まずはロックファンにもお馴染みのランDMC、LLクールJ、ビースティ・ボーイズらによるデム・ジャム勢の隆盛。パブリック・エナミーやKRS・ワンのように政治/社会色を打ち出した者。デ・ラ・ソウルらによるネイティヴ・タン/ニュースクールの振動。『Yo! MTV Raps』の放映開始。MCハマーのように“売り”に出る者。
そしてロサンゼルスからはN.W.A.を筆頭とするギャングスタ・ラップの衝撃。ドクター・ドレーのGファンク旋風。デス・ロウとバッドボーイの台頭。東西抗争に巻き込まれた2パックとノートリアスB.I.G.の死。ソウルとの融合。女性ラッパーの登場。サウスへの移動。ジェイ・Zやエミネムのデビュー……すべてヒップホップがまだ10〜20代だった頃の出来事だ。
『ワイルド・スタイル』(Wild Style/1983)はヒップホップが10歳にも満たない、つまりまだ小学生だった頃の原風景を捉えた映画。「これを観ないとヒップホップは語れない」と言われるほどのマスターピース。
作品レベルとしてはお世辞にも完成度は高いと言えないが、「あの時代あの場所に漂うリアルな空気や臭い」がドキュメンタリータッチで展開される荒々しさ。登場人物たちのファッション、パーティやクラブのシーン、グループ間の対立にも注目だ。観終われば、ヒップホップとは単なる音楽ジャンルではなく、そもそもカルチャー全体を指す言葉であったことを実感できる。
ヒップホップのルーツはジャマイカから、という古い話をするつもりはない。ここではニューヨークのブロンクスが始まりだ。この地には1980年前後、ジャマイカ系やヒスパニックといった人々が多く暮らしていた。特にサウス・ブロンクスはスラム化し、ティーンたちは街のブロックごとにギャング化。金がないので屋外でブロック・パーティが行われるようになる。
なお、このあたりの経緯や展開は『文化系のためのヒップホップ入門』(長谷川町蔵・大和田俊之著/アルテスパブリッシング)に詳しいので一読をオススメする。ポイントだけ簡単にまとめておこう。
クール・ハークは故郷ジャマイカのサウンドシステムをパーティに持ち込み、巨大なスピーカーで重低音を響かせてキッズたちを圧倒。これはヒップホップ誕生伝説として有名な1973年8月のエピソード。ハークは仲間たちのダンスの盛り上がりが歌の部分ではなく間奏のドラムブレイクの箇所であることに気づき、同じJBのレコードをもう1枚買ってきてターンテーブルでループさせた。ブレイクビーツの発明だった。
ハークのプレイに感動した番長アフリカ・バンバータもDJになった一人。中古レコードを漁っては使えるネタを探す“ディグる”行為が広まっていく。DJたちは自分のネタを他人に教えたくなかったので、レーベル部分を消し去っていたという。この頃発掘されたブレイクビーツは『Ultimate Breaks & Beats』というオムニバス盤にまとめられた。
そして同じくハークからDJプレイを学んでいたグランドマスター・フラッシュは、親戚が生み出したスクラッチを確立。また、パーティの仕切り役としてのMCはラップをやり始めていた。こうしてブレイクビーツ・スクラッチ・ラップという音楽的要素が揃ったのだ。
DJ、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ。これを「ヒップホップの4大要素」と呼ぶが、『ワイルド・スタイル』のプロモーションで来日したロック・ステディ・クルーは本場のブレイクダンスを踊って日本のキッズたちに衝撃を与えた。
グラフィティは70年代前半にはニューヨークの地下鉄車両や建物の壁に描かれて問題化していた。バスキアやキース・ヘリングによって世に広まった見方もあるが、「深夜に忍び込んで警察の目を盗んで人知れず描く」行為こそがグラフィティの真髄だった。『ワイルド・スタイル』はヒスパニック系の伝説のグラフィティ・ライター、リー・ジョージ・キュノネスを主役にしている。
後に『Yo! MTV Raps』のホストとして活躍することになるファブ・ファイブ・フレディも、そんなライターの一人だった。彼が仲介役となってハークやバンバータがダウンタウンのクラブでDJするようになり、ブロンディやトーキング・ヘッズなど高感度なNYニューウェーヴとの交流が始まっていく。ザ・クラッシュはNY公演でグランドマスター・フラッシュを前座に起用した。
最後にレコードで活躍したオールドスクールのアーティストも並べておこう。シュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」(1979/全米36位)は最初のラップヒット。カーティス・ブロウは最初にメジャーと契約したラッパー。アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースの「Planet Rock」(1982)はクラフトワークをサンプリング。グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴの「The Message」(1982)も忘れてはならない。
映像作品では『ワイルド・スタイル』のほか、『スタイル・ウォーズ』(1983)『ビート・ストリート』(1984)『ブレイクダンス』(1984)『クラッシュ・グルーヴ』(1985)などは、初期ヒップホップの躍動を感じるためには必見だ。
思えばヒップホップが小学生だった頃、ロック/ニューウェーヴのファンは一過性のブームと思ってヒップホップを聴いていた。しかし米国の黒人にとっては大きな意味を持っていた。冒頭の話と比べると何だか皮肉な話だ。
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*日本公開時チラシ
【シュガーヒル・ギャング来日公演情報】
(詳しくはこちらから)
東京ステージ(2017年12月30日)
大阪ステージ(2017年12月31日)
※大阪での2ndステージはカウントダウン公演
*このコラムは2017年12月に公開されたものを更新しました。
評論はしない。大切な人に好きな映画について話したい。この機会にぜひお読みください!
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