2018年において最も多くの人に聴かれた楽曲は、米津玄師の「Lemon」ではないだろうか。
セールス面もさることながら、テレビやラジオ、そして街でも、「Lemon」は流れて続けていた。
これほどいたる所で耳にする音楽は、近年では珍しいように感じる。
インターネットが普及して以降、人々の趣味やライフスタイルは細分化し「みんなが知っているヒット曲」は生まれないと言われていた。
しかし、米津玄師の音楽は年齢や性別を問わず、日本中の人々に聴かれていた。
「国民的ヒットは生まれない」という通念を、彼はたった一曲によって壊したのである。
米津が「Lemon」を作り出した原点には、彼自身の体験とニューミュージックの時代に活躍したミュージシャンからの影響があった。
「Lemon」の制作は、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌依頼が米津に届いたことから始まった。
法医解剖施設が舞台で、死をテーマにしたヒューマンドラマだったことから、人間の生と死を歌い続けていた彼に白羽の矢が立ったのだ。
米津は作品に込められた熱量や物語としての美しさに惹かれ、楽曲を作り始めた。
しかし、彼の価値観を大きく揺るがす出来事が訪れる。制作途中に祖父が亡くなったのである。
「自分は死にまつわるようなことをずっと歌ってきた人間だから、それを音楽にするというのは言ってみればなじみの深いものだったんです。」
「でも、自分の目の前に死が現れたとき、果たしてそれは一体どういうことなんだろうって思って。今までの自分の中での死の捉え方がゼロになった。」
(音楽ナタリー 米津玄師インタビューより)
身近な人の死に触れたという経験によって、今までの死生観を揺るがされたのだ。
それでも米津は、迷いや混乱の中で制作を続けた。
個人的な体験を経て意識したのは、いかに「人の死」というものを直接的に感じさせない歌詞を紡ぐかということだった。
そして、ある日「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」というフレーズが、ふとメロディとともに生まれたという。
一見、死というテーマからは離れている「レモン」という言葉から歌詞を膨らませ、楽曲は完成した。
そうして完成したものは「別れ」や「死」といった言葉を直接的に使わないからこそ、喪失感や悲しみが切実に描かれたものになった。
この普遍的な歌詞は、彼の声から生まれたフラットするメロディやヒップホップのビート、そしてゴスペルのようなアレンジによって届けられた。
そうして今までのポップスにはない新鮮な響きを持ちながらも、人々の心に響く楽曲になったのだ。
米津は「Lemon」を制作する上で、小田和正や中島みゆき、吉田拓郎といった70年代のミュージシャンたちの音楽を聴いていたという。
中でも大きな影響を受けたのは、松任谷由美の「Hello, my friend」であった。
こうして見返すと、歌の中で主人公が過去を振り返る構成や、聴く者に言葉の行間を自然に想像させるような歌詞など、「Lemon」と通じる部分は多い。
思えば、松任谷由美(荒井由美)もデビュー当時から人の死と生を描いた作詞家であった。
そして、彼女は欧米のポップスから影響を受けた新鮮なサウンドを提示したミュージシャンでもある。
普遍的かつ新しいポップスを作っていた「ニューミュージック」の精神は、米津にも引き継がれていたのだ。
彼は音楽を作り出す上の信条として、「歌謡曲のような音楽を作りたい」という想いがあるという。
「歴史に根ざしているものを自分の中に取り入れて、構築して、音楽に反映するにはどうしたらいいかと考えながら作業をしているんです。」
「だから、年配の方にも受け入れられていると聞くと、このやり方は間違っていなかったんだ、と少し安心します。」
(ORICON NEWS 米津玄師の歌詞への思い、祖父の死乗り越え『果たして正しかったどうか』 より)
米津が個人的な体験を経て作り出した「Lemon」は、かつての歌謡曲やニューミュージックの精神を引き継ぎ、進化させたものだった。
新しく、なおかつ日本人の心に響くポップスであったからこそ、多くの人に愛される楽曲になったのだ。