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お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹

2024.05.15

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2015年4月13日、この日に還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。

それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲「蜃気楼」にもトライしている。この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっている。

意外なことに『心響 -KODOU-』は、1972年3月25日に発売されたデビュー曲の「恋する季節」から始まっていた。今剛のアコースティック・ギターを主体として、山木秀夫のドラムとだけで構築したアレンジは、アルバムの中でもっともアグレッシブな出来映えであった。


まだ少年だった木本龍雄が、歌手として成功することを夢見て、広島から上京したのは1971年の秋、高校1年で15歳だった。

同郷の出身でロカビリー歌手だった藤本好一にスカウトされた木本少年は、父親の強い反対を振り切るようにして、夜逃げ同然の形で上京してきた。

そこからはヴォイストレーナーの先駆者、大本恭敬に師事して厳しい歌のレッスンを受ける一方で、縄跳びなどの運動による体力づくりにも励んだ。そうした日課が終わったら、3畳にも満たない狭い部屋で寝るだけの日々が続いた。

そんな木本少年のもとに、念願のデビュー曲が届いた。曲名は「恋する季節」。作詞が麻生たかし、編曲は高田弘、そして作曲を手がけたのが筒美京平だった。

1968年にいしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしたのを機に、筒美京平は歌謡曲の第一線で活躍する、もっとも勢いのあるヒットメーカーになっていた。とくに1971年に尾崎紀世彦が歌って大ヒットした「また逢う日まで」は、木本少年がドラマーから歌手になるきっかけになった作品であった。

ロックの世界でドラマーとして成功することを夢見て、中学生の頃からバンドの一員としてドラムを叩いていた木本少年は、テレビから流れてきた「また逢う日まで」を聴いて、それまでの歌謡曲のイメージが一変したという。そこでドラムから歌手に転向したのである。

それだけに筒美京平の楽曲でデビューすることがわかったときは、喜びもひとしおだったであろう。

うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた。
部屋の中より響きが良いので、マンションの階段で大声で歌っていたら、
あちこちの部屋のドアが開き、「バカヤロー、メシがまずくなる!」と怒鳴られた。
仕方ないから、屋上で練習を繰り返したが、響かないからつい大声になる。
気がつくと、のどから血が出ていた。でも、メロディーは最高だったし、
ヒットすることを祈りながら毎日歌い続けた。


しかし12月の半ばに譜面をもらったのに、1月が過ぎてもレコーディングの日が決まらなかった。その頃の不安な思いが、著書「誰も知らなかった西城秀樹。」(青志社)には、このように記されていた。

だから本当にレコーディングされるとわかったときは、もう天にものぼるような気持だった。1回めはあがってNG。OKが出たときも、「もう一度、歌わせてください」といって歌った。


その後、雑誌の公募で芸名が「西城秀樹」に決まり、キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」になった。



1972年3月25日、念願のデビュー・シングル「恋する季節」は、日本ビクターのRCAレーベルからリリースされた。身長が高くてルックスが良かったこともあり、業界内での評判は上々だったので、テレビの音楽番組への出演が決まった。

ところがその収録スタジオでのこと、元カーナビーツのドラムで、ボーカルを担当していたアイ高野に声をかけられた。そこで「恋する季節」に関して、思ってもみなかった事実を伝えられたのである。

「あの歌ね、ホントはぼくのところにきたんだけど、気に入らなくてボツにしちゃったんだよ。ハハハ!!」
デビュー曲が先輩バンドマンの”お下がり”だったなんて・・・。少年はポカンと口を開けたままだった。


それだけでなく、アイ高野が唄うこと想定して、ファンに喜んでもらえるようにと、粋なアレンジが施されていたことを知る。

サビの終わりで「♫ つぼみなら柔らかく抱きしめよう」と唄った後に、ホーンセクションがメロディーを追いかけるところで、カーナビーツのヒット曲「好きさ好きさ好きさ」の中の一節が流れるのだ、

アレンジも含めて、アイ高野の面影を感じさせるデビュー曲に、西城は一人で悔しさを噛み締めるしかなかった。「恋する季節」は結局のところ、オリコンのチャートでは最高42位という結果で、西城秀樹にとっては苦い思い出となった。

それから間もなくして、派手な振り付けを取り入れたことで、ヒット曲に恵まれ始めた西城は、一気にトップ・アイドルの仲間入りを果たしていく。しかし振り付けに関しても、正直にいうと嫌でしょうがなかったという本音を述べていた、

振り付けの一の宮はじめさんが“素晴らしい振り”をぼくにつけてくれた。それを新聞で再現できないのが残念だが、素晴らしすぎて涙が出てくる。二度と人前ではやりたくない!


それでも西城は与えられた課題をすべてクリアし、自分の力で若きスーパースターにまで昇りつめていく。しかし筒美京平の曲を歌う機会はしばらく訪れず、1979年の「勇気があれば」まで待たなければならなかった。

西城はそこから30年以上もの時を経て、脳梗塞で二度も倒れながら、懸命のリハビリで立ち直り、現役に復帰した。そして還暦を記念するアルバムを制作するときに、どこか不本意な思いが消えなかったデビュー曲を、ほんとうに自分の作品として完成させることに挑んだ。

かすかな心の傷痕を、新しいサウンドと歌唱によって、乗り越えるためだったのだろう。デビュー当時から様々な洋楽をカバーして、音楽面で自分の世界を切りひらいてきた実績、大人のシンガーとして重ねた経験と、この曲に対する愛情がそれを可能にしたのだと思う。

西城秀樹は最初から最後まで、歌手であると同時に表現者であったのだ。


(注)文中に引用した西城秀樹の言葉は、産経新聞1995年(平成7年)
4月から毎週土曜日、2年間連載が続いたコラム「のどもと過ぎれば」からの引用です。なお「恋する季節」へのコメントは本人の著書、「誰も知らなかった西城秀樹。」(青志社)から引用しました。


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