目立たない新人歌手だった北原ミレイのレコードを試聴していたスポーツニッポンの音楽記者、小西良太郎は歌い出しから驚き、最後まで聴き終わると小躍りするほどに心が昂ったという。
この1曲で僕は作詞家阿久悠と歌手北原ミレイを同時に発見、ものの見事に舞い上がった。この作品が流行歌の流れを変える! 変革の70年代、阿久は新時代の旗手になる! それを象徴するのがミレイだ!
新時代が訪れると小西が確信した「ざんげの値打ちもない」は、1970年10月に発売された当初は目立たなかったが、晩秋を過ぎて冬になってから注目され始める。
歌い出しから不穏な展開を予感させる歌詞を書いたのは、作詞家としてはまだ新人の部類に入っていた阿久悠である。
愛に飢えていた14歳の寒い夜に始まり、15歳の誕生日だった雨の夜から、ナイフを手にして憎い男を刺そうと待っていた19歳、そして鉄格子のなかから空を見上げていた20代へと、自分の過去と犯罪を思いおこしていく歌は異色中の異色作だった。
小西良太郎は新しい才能の出現を世に知らしめようと、スポーツニッポン紙上で原稿を書くだけでなく、音楽業界のネットワークを活用して口コミでも広めた。
心が冷え冷えしてくるようなその歌は、冷たい冬を迎えて少しづつ口コミで知られるようになり、有線放送などを通じて巷へと流れ出した。
この曲がヒットしたことによって阿久悠は新しい表現者として、一挙に脚光を浴びることになったのである。
放送作家として音楽番組の制作に関わっていたことがきっかけで、1965年から作詞にも手を染めていた阿久悠の最初の作品は、GSのザ・スパイダースのデビュー・シングル「フリ・フリ」のB面曲、「モンキー・ダンス」だった。
1967年に書いた「朝まで待てない」が最初のA面曲で、GSのモップスが歌ってまずまずのヒットになった。そこからブームを迎えていたGSを中心に、作詞の仕事が入ってくるようになったのだ。
だがGSのブームは2年で終焉をむかえ、ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」と、ザ・キャラクターズの「港町シャンソン」が注目されたくらいで、そう簡単にヒット曲に恵まれたわけではない。
ようやく大ヒット曲が誕生したのは1970年に入ってすぐのことだ。長いブランクからカムバックした森山加代子の「白い蝶のサンバ」は、舌をかみそうな早口言葉がユニークだと大いに話題になった。
ひと味ちがう新鮮な手法の歌詞で大ヒット曲を放ったことで、阿久悠のもとに作詞の仕事が殺到してきた。だが本人はなぜかそのことに怒り、どこかで苛立っていたという。
その頃の心情を振り返って、阿久悠はこう語っていた。
一体ぼくは何に怒っていたのだろうか。社会に対してであろうか。それとも、一向に先の見えない自身に対する苛立ちであったのであろうか。重い、暗い、しかしそれだけではない一点冷たい光を放つ詞を書きたいと思っていた。
そして、地味な頼まれ方をした地味な仕事ひとつで、「ざんげの値打ちもない」を書き上げたのだった。その歌をひとりの新聞記者があちらこちらで絶賛している、そんな話がどこからともなく聞こえてきた。
ナイフの青白い光が眼を射る映像的感覚、ドス黒いストーリー性、早熟の時代を言い当てた視点、流行歌のタブーへの挑戦などが、衝撃的で新鮮で、文学的ですらあった。
小西が雑誌に書いた文章を読んだ阿久悠は、「そう言うふうに評価してくれる人がいるなら、本気で作詞をしてみよう」と、背中を押された気持ちになったという。
冷えきった寂寥感を見事に歌った北原ミレイももまた、「小西さんが居なかったら、あの歌はきっと世に出なかった」と、感謝を込めて述懐している。
ひとりの新聞記者が発見して広めた歌は、ひとりの新人歌手を世に送り出した。そして、ひとりで数十人分もの仕事を成し遂げる作詞家は、この衝撃的な歌によって脚光を浴びて、歌謡曲の新時代を築いていく。
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