小室等は、日本にまだ「フォークソング」という呼び名がなかった頃に、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」を聴いてギターを始めた。
1960年代の初頭にやってきた男性ファッションの新しい流れのなかで、「アイビー」や「コンチ」とともに、アメリカから輸入されたのが「フォークソング」だった。
だから、ファッショナブルな音楽としてとらえられていましたね。社会的なメッセージという意識は全然なかった。コンサートは、カントリーの人たちと一緒に「ステューデント・フェスティバル」なんてイベントに出ていました。
それから数年が経ち、唐十郎が率いる状況劇場の赤テント芝居では、ほとんどの作品で小室が劇中歌を手がけていた。フォークシンガーの草分け的な存在だった小室は、1968年に「六文銭」を結成し、プロで音楽活動を続けることを意識し始めたという。
「六文銭」は自分たちの中の覚悟として日本語であくまでやろうってことで始めて……グループ名もあえて日本語にしたわけ。
なお、サムネイル写真は、音楽史に残る野外フェスティバルとなった、1971年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーのときのもので、右側の後ろに六文銭の紅一点だった四角佳子、その前にサングラス姿の及川恒平が写っている。(撮影/井出情児)
1970年代に入ると、テレビの人気時代劇『木枯し紋次郎』などの主題歌などを手がけてヒット曲を出す一方で、六本木自由劇場ではアングラ演劇に自ら出演するなど、小室は一貫して新しいムーブメントのなかで文化を生み出してきた。
『私は月には行かないだろう』
1971年に発表された小室のソロ・アルバム『私は月には行かないだろう』は、それまでメロディーがついて歌われると考えられていなかった日本の現代詩を取り上げて、新しい歌にチャレンジしていた。大岡信の「私は月に行かないだろう」、谷川俊太郎の「あげます」、茨木のり子の「12月の歌」などが注目された。
そのアルバムの1曲目に収録されていて、後に広く知られるようになるのが「雨が空から降れば」である。
1960年代は若者たちが世界各地で、それまでの価値観や商業主義に束縛されない表現を求めて、さまざまな分野で自由で新しい文化をと生み出していった。
日本でも映画ではヌーベルバーグ、音楽ならばフォークやロックの登場、演劇ではアングラとも呼ばれた小劇場演劇が活況を呈し、若者たちのムーブメントとして注目を集めた。
そうした時期にフォークソングと小劇場演劇が交わった時期があり、そこにいたのが小室等や及川恒平だった。「雨が空から降れば」は、1970年に上演された「演劇企画集団66」、俳優の常田富士男が参加していたグループの『スパイものがたり』という芝居の劇中歌として生まれた。
劇作家の別役実が書いた歌詞による「雨が空から降れば」は、芝居から離れても、小室をリーダーとする六文銭に歌われていった。後にシンガー・ソングライターとして活躍する及川恒平が、当時はリード・ヴォーカルを担当していた。
日常感があってわかりやすい叙情的な歌に聴こえるが、途中から幻想的な光景をかいまみたような感覚にもとらわれる。後半の「公園のベンチでひとり おさかなをつれば おさかなもまた 雨の中」という言葉のつらなりは、歌という表現でしか伝えられない日本語の域に達していた。
とはいえ、歌詞から素直に意味を受け取ろうとする人には、よくわからない歌だということになってしまう。 そもそも『私は月には行かないだろう』というアルバムが、発表当時からそれほど多くの人に聴いてもらえた作品でもなかった。「雨が空から降れば」はしばらくの間、知る人ぞ知るという歌にとどまっていた。
しかし、フォークソングを歌っていた若者の間で、雨が地面にしみこむかのように静かに浸透していった。吉田拓郎、本田路津子、かぐや姫などが、この作品をカヴァーして歌い継いでくれたのだ。
さらには1976年の10月から11月にかけて、「NHKみんなのうた」に取り上げられて、幼い子どもやその親たちにも広まった。
2012年に出演したCS音楽専門チャンネルの番組のなかで、小室は「雨が空から降れば」についてあらためてこう述べていた。
どんな時でも、この歌はね、全部受け止めてくれるんです。それはある意味では何も言ってないからだと思うんです。ただひとつ言ってるのは、しょうがないっていうことだけです。
(注)本コラムは2018年6月15日に公開されました。なお小室等氏の発言は、「村田 久夫, 小島 智 (編集)『日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言』 シンコー・ミュージック」からの引用です。
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