1951年に東亰に生まれた船山基紀は、早稲田大学高等学院から早稲田大学政治経済学部に進んだが、大学3年の時にアルバイトで始めたヤマハの「ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」の仕事で、編曲の基礎を学んだことから音楽の道に進んだ。
1974年からフリーの作編曲家として仕事をするようになり、75年にはポプコン出身だった中島みゆきのデビュー・シングル「アザミ嬢のララバイ」と、世界歌謡祭でグランプリに選ばれた「時代」を続けて手がけたことで、名前を知られるようになった。
そしてアグネス・チャンや山口百恵の仕事などで評価が高まり、77年には日本レコード大賞を受賞した沢田研二の「勝手にしやがれ」で、歌謡曲のヒットメーカーとして認められた。
その一方で五輪真弓「恋人よ」や渡辺真知子「迷い道」、庄野真代の「飛んでイスタンブール」など、ニューミュージック歌謡と呼ばれるタイプの作品でも、次々に斬新なサウンドによるヒット曲を生み出していった。
船山の全仕事をまとめた単行本「ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代」(リットー・ミュージック)には、1970年代に全盛期を迎えた歌謡曲とニューミュージックについて、多忙な日々の体験ともに貴重なエピソードが語られている。
船山が最初に沢田研二の作品に起用されたのは1976年のことで、シングルの「コバルトの季節の中で」だった。作詞した小谷夏はTBSの演出家・久世光彦のペンネーム、これは詞が先にできていたものに沢田自身が作曲した。
船山はその楽曲をフォーク調にアレンジして完成させたのだが、沢田研二のプロジェクトを仕切っていた渡辺プロダクション側のプロデューサー・木崎賢治にやり直しを命ぜられてしまった。
しかし、木崎は出来上がった作品をボツにしたにもかかわらず、もう一度自らが抜擢してきた船山にチャンスを与える。しかも、やり直しとなったバージョンでは「時の過ぎゆくままに」を作曲した大野克夫が、イントロの印象的なギターのフレーズを書いてくれたという。
「コバルトの季節の中で」の次に「さよならをいう気もない」を挟んで作られたのが、「勝手にしやがれ」「憎みきれないろくでなし」「サムライ」と続く、作詞/阿久悠・作曲/大野克夫コンビの作品である。
そこに至る流れについて、船山がこのように語っていた。
録り直しをしてもクビにならなかったのだから、昔の業界はすごい。そこまでで1曲分の予算を使っているのだから。その後はしばらく大野さんの作曲が続くことになり、これ以降の曲は、イントロもすべて大野さんが作るようになった。
大野のデモテープはきちんとしたリズム隊で録音されていたので、船山はそのデモテープを派手にしてヒット・チューンに仕上げる役に徹していった。なかでも「勝手にしやがれ」は、「時の過ぎゆくままに」と並ぶ沢田研二の代表作となった。
しかし、大野克夫のデモテープはリズムが16ビートで、それを聴いた木崎が8ビートに変更することにしたという。木崎によれば、それについての判断基準は、「キックの4打ちは日本語が浮き出やすい」という、実際に体験して得ることができたヒットの秘訣にあった。
そうしたプロデューサーの意向を理解して、船山は大胆で力強いサウンドに仕上げていったのだ。
船山は仕上げを行ったエンジニアの吉野金次について、そのテクニックをこんなふうに絶賛していた。
沢田研二さんの曲は、同じ時代の他の歌謡曲に比べ音の奥行きが違っている、と言われたことがあるが、それは吉野金次のテクニックに他ならない。エンジニアによって音の音色は全く変わる。「勝手にしやがれ」も全体の音像がキラキラしていて、ハネケンさんのピアノも良い音を奏でていた。それを活かすエンジニアの吉野金次のテクニックも素晴らしく、沢田さんのヒット曲は、吉野金次の腕前によるところがかなり大きいと個人的には思っている。
アーティストとプロデューサー、アレンジャーとミュージシャン、そしてエンジニアが同じ方向に向かって持っている技術とアイデアを集積させることで、後世に残るヒット曲が仕上がっていたのである。
後に大野克夫がセルフカバーした「勝手にしやがれ」と聴き比べると、船山の個性もまた鮮やかに浮かび上がってくる。
<参考文献>「ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代」(リットーミュージック) なお、文中に引用した船山基紀氏の発言は、同書によるものです。
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