写真家ロバート・メイプルソープは、デビュー前のパティ・スミスに対して、いつもこう言っていたという。
「パティ。僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」
1974年、27歳のパティ・スミスは、ニューヨークの住人となって7年目を迎えていた。その翌年、パティはデビューアルバム『Horses』を発表する。
当時、パティのパートナーだったロバートによるジャケット写真も話題となり、そのアルバムは“ロックの名盤”として今日まで高い評価を受けている。
パティがロバートと出会ったのは1967年の夏、共に二人は二十歳だった。そんな二人が出会い、別れるまでの“青春の日々”こそが、唯一無二の存在感を放つアーティスト“パティ・スミス”にとって、最も重要な数年だったのかもしれない。
その運命的な出会いから、さかのぼること数年。パティは思春期の頃に、詩人ランボーとボブ・ディラン、ローリング・ストーンズやドアーズのジム・モリソンに大きな影響を受けて、芸術の世界にのめり込んでいった。
そして十代にして、早くも“アーティストとして生きる道”を選択する。ハイスクールでは美術を専攻し、大学でもそれを貫こうとするも、学費が払えないため、奨学金を得て美術教師になるための教員大学に入学した。
そして卒業を間近に控えた頃、パティは子供の父親もわからないような妊娠をしてしまう。当時(1964年)のアメリカでは妊娠中絶は違法とされていたので、大学を辞めて出産をした。さらに自身の経済状況から、その子供を養子に出した。この選択はパティにとって、長い間大きな重荷となっていく。
学校と子供、それに未来への希望も失ってしまったパティは、工場で働きながら悲しく退屈な日々を過ごすこととなる。そんな生活を続ける中、「もうこれ以上失うものなどない」と悟って、新たな出発の決意をする。そして1967年の夏、8歳の頃から育ったニュージャージーの片田舎を後にして、単身ニューヨークへと旅立った。
わずかな現金(16ドル)を握りしめて、何のあてもないまま逃げるように、祈るように、そして輝ける未来を求めて。当時のアメリカと云えば、ヒッピー文化が花開き、フラワー・チルドレンが闊歩した「サマー・オブ・ラヴ」の時代である。そして「スチューデントパワー」や「ブラックパワー」が吹き荒れた政治の季節でもあった。
「芸術家は自分のことを分かってくれる」という、思い込みにも近い考えがあったパティは、ランボーやディランのようなアーティストの愛人になりたいと、当時は本気で思っていた。そうした空想を取り去り、自身も芸術家としてやっていくことを決意させたのが、ニューヨークで出会ったロバート・メイプルソープの存在だった。
パティはあるインタビューで、当時の二人の出会いをこんな風に表現している。
「それは、コルトレーンが亡くなった夏だった。フラワー・チルドレンたちが手のひらを広げた夏だった。そして、私がロバート・メイプルソープに出会った夏だった。」
パティはニューヨークに着いて間もない頃、ウェイトレスや書店員などの職を転々とし、ある時はホームレス同様の極貧生活を経験した。そんなある日、ひと先ず泊めてもらうために知人のアパートを訪ねた。ところが、その知人はすでにそこから引っ越しており、代わってそこに住んでいたのが、写真家志望の青年ロバート・メイプルソープだった。
その後、同い歳でアーティスト志望の二人は親しくなり、ロバートはパティが抱える悩みについて、親身になって助言を与えてくれるようになる。それと共に、パティに対して自分だけの芸術表現を生み出すようにと勇気づけた。
「パティ。僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」
出会った当初から、ロバートはパティにこの言葉をかけていたという。
共同生活を始めた二人は、お互いの才能を伸ばしあうようになる。パティは新天地ニューヨークで書店員をしながら、詩を書き、絵を描き、時には演劇に出演したりするなどの芸術活動を始めた。
とはいえ当時のパティは、ランボーやディランに憧れる文学少女に過ぎなかったし、ロバートもまた、アーティスト志望の無名の若者に過ぎなかった。
そんな二人を大きく変えたのが、1970年頃から滞在(共同生活)していたチェルシーホテルでの日々だった。様々のアーティスト達が“たまり場”としていたこの歴史的ホテルでの数々の出会いが、アーティストとしての二人を形作ったのだ。
アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、サルバドール・ダリ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスといった人間との交流は、二人を大いに刺激した。
そんな中、パティは同じ“チェルシーの住人”でもあった(現在は俳優としても知られる)劇作家のサム・シェパードから戯曲の共作を依頼されたりして、徐々に活動を活発化させていく。
1971年、アンディ・ウォーホルの初期共同制作者であるジェラルド・マランガの、セント・マークス教会での朗読会の前座として出演することとなったパティは、すでに知り合っていたギタリスト(当時はレコード屋の店員をやりながら音楽評論を書いていた)レニー・ケイのエレクトリックギターに詩を乗せてポエトリー・リーディングを行い、詩人としての一歩を踏み出した。
そんな新しい日々が続く中、ゲイという自分のセクシャリティに気づき混乱し始めたロバートが、パティに「サンフランシスコに一緒に来てくれないか? あそこには自由がある!自分が誰なのか見極める必要があるんだ!」と迫った時があったという。
当時のサンフランシスコは、ヒッピーの聖地であると共に、ゲイカルチャーのメッカでもあった。ロバートが同性愛に目覚めた時に、パティは「それは今まで文学の中にしか存在してなかったから、どう受け止めたら良いか戸惑った」と正直な気持ちを吐露しているが、ロバートに同性愛的な写真を撮るように勧めたのはパティ本人だったという。
お金がないのに“そっち向けの雑誌”を買っては、大した写真が載ってなくてがっかりしたりしていたロバートに対して、こんな言葉をかけたこともあった。
「それなら自分で自分の写真を撮ってみたら?」
その後、深く魂のレベルで繋がっていたはずの二人は、男女の関係ではなくなったことを意識し始め、次第に住む世界にも違いを感じ始める。
二人は各々新しいパートナーを得て、別々で暮らす決心をし、チェルシーを離れることとなる。そして1972年10月20日、奇しくもランボーの誕生日に二人は別れた。
1973年、パティは自ら志願して、当時すでに話題となっていたニューヨーク・ドールズの前座として舞台に立った。この時、何と伴奏もマイクも無しで、観衆の前に立った。
もちろん、観衆のほとんどはニューヨーク・ドールズのファンであり、パティ・スミスのことなど知らない若者達ばかりだった。ステージ上で汚いヤジと闘いながらも、次第に観衆を引き込んでいった。
パティのパフォーマンスは、初めて聴くオーディエンスさえも、感動させることができることを見事に証明してみせたのだ。こうして、パティはアンダーグラウンドのカリスマとして迎えられるようになっていく。
マスコミもすぐに目を付け、パティのことを「キース・リチャーズの顔をした両性具有の女流詩人」などと書き立てた。
目まぐるしい日々を送る中、振り返ればこの街(ニューヨーク)に来て7年の歳月が流れていた。1974年、27歳となったパティは、レニー・ケイらと共に、自身にとってのデビューアルバムの制作準備をスタートさせた。
そして翌1975年の『Horses』リリース以降、好調に数枚のアルバムを発表する中、1980年にフレッド・スミス(MC5のギタリスト)と結婚して音楽活動を休止した。
パティが新たな子供を授かったその時、ロバートがエイズに感染したことを知らされたという。そして時は流れ…1989年、ロバートはこの世を去った。享年42。
出会いから約22年間。ランボーの誕生日に別れた後も、二人の友情は続いていたという。その後、夫の死を乗り越えながらも良質な作品を発表し続け、孤高の存在としてステージに立ち続けたパティは、2007年に「ロックの殿堂入り」を果たし、2011年には音楽界のノーベル賞とも言われる「ポーラー音楽賞」を受賞した。
パティ・スミスは現在もステージに立ち続けている。観客からの熱狂的な歓声の中、彼女にだけはこんな声が聞こえているのかも知れない。
「パティ。僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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