生まれ故郷であるアーカンソー州ダイエスに職もなく、歌で身をたてようと心に決めたところで兵役にとられた。1950年7月、おりしも朝鮮戦争で緊迫する冷戦の只中に空軍に徴用され、ジョニー・キャッシュは通信兵としてドイツに送られる。
やりきれない日々だったのだろう。「まるで性分に合わない4年」と自伝にもある。
勝算があったわけではない。敬虔なバプティストの一家で育ち、歌といえばゴスペルかチャーチ・ソング。ギターもうまい方とは言えず、声もあの凄みのきいたディープなバリトンではなく、当時はテナーだった。
キャッシュはこの時期に歌詞作りに打ち込み、多くの詩を書きためた。
俺がまだガキの頃 おふくろは俺に言ったもんさ
いつもいい子でいるのよ 銃なんて弄んじゃだめ、と
でも、俺はリノで男を撃った
ただそいつが死ぬのを見るためにな
この「フォルサム・プリズン・ブルース」の歌詞も、その頃のドイツの基地でひと晩で一気に書き上げたものだった。殺人を描いた唄はカントリーの定番とはいえ、「死ぬのを見るために人を殺した」という冷酷さは類がない。
1955年12月に発売されたこの曲は、カントリー・チャートで4位までかけ昇り、歌手としての地位を不動のものとした。
どんなに罪深い無法者にでも、わけへだてなく神の救いはやってくる。償いきれないほど深い罪を背負った者でも俺は見捨てない。この歌に込められたキャッシュの真意が人の胸を打ったのだ。
きっかけは、刑務所の検印を捺されたファンレターだった。
自分のファンの中に少なからぬ受刑者たちが含まれていることに気づいたキャッシュは、カルフォルニア州に実在するフォルサム刑務所を訪れることを決意する。もとより慰問ではない。様々な経緯で塀の向こう側に落ちてしまった男たちと、顔をつき合わせて心を分かち合ってみたい。
ジョニー・キャッシュが刑務所で念願のレコーディング・コンサートを実現させたのは、1968年1月13日。イメージを気にするレコード会社など周辺からはことごとく反対され、初めてフォルサムを訪問した時からやがて6年が経とうとしていた。
食堂で開かれたコンサートで、囚人たちとの間にはほとんど何の隔てもない。手を伸ばせば靴先に届くほどの距離でキャッシュは歌った。キャッシュの表情からは、ここで何が起きても構わないという腹のくくり方が見てとれる。
「刑務所に入ったことはないが、パクられたことなら何度かね」
歌の合間にそう語りかけただけで、歓喜の声が弾ける。キャッシュの麻薬事件のことを知らない聴衆は一人としていない。やがて、キャッシュと観衆がひとつになってステージは熱狂状態となり、看守たちは色を失い、思わず腰の防護銃に手をやったという伝説まで残されている。
刑務所側が恐れていたのは、そんな成り行きだった。建前として彼らがキャシュに望んでいたのは、国民的ヒーローによるあたりさわりのない「人生講話」であり、犯罪や殺人や脱獄、ましてや自分たちに向けられた鬱積した不満を綴った歌などではありえない。
危険な歌詞だらけのソングリストに驚いた看守たちは口を挟もうとしたが、キャッシュは一切はねつけて自分の選曲通り、「フォルサム・プリズン・ブルース」をはじめ、極めつけの曲すべてを歌い尽くした。
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(このコラムは2014年12月27日に公開されたものです)