イギリスで絶大な人気を誇っていたバンド、ザ・ジャム。その活動は1982年12月11日のコンサートを最後に幕を閉じた。
そして1983年。精神的に大きな負担となっていたバンド活動から解放されたポール・ウェラーは、これからの音楽活動に対して非常に前向きになっていた。新たに音楽を作っていくにあたってポールが選んだ新たなパートナーは、キーボーディストのミック・タルボットだった。
ポールが当時傾倒していたソウルやジャズといったサウンドを取り入れるために、キーボードは必要不可欠だった。ミックはジャムのレコーディングに参加したことがあり、ポールは彼のユーモアに溢れた人柄や共通する音楽の趣味にとても惹かれていた。
まさに打ってつけの存在だったのだ。
2人はスタイル・カウンシルというユニットを結成すると、その年の3月に早くもデビュー・シングル「スピーク・ライク・ア・チャイルド」をリリースする。
ジャムの後期で聴くことのできたソウルのサウンドがより押し進められ、ポールはファンキーなベースを弾き、ミックのキーボードとブラス・セクションが全体をポップかつ華やかに仕立て上げた。
「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は全英4位、35万枚を売り上げ、スタイル・カウンシルは上々なスタートを切ったが、ジャムのファンにはギター・ロックとの決別のようにも映った。
実際、この頃のポールはギター・ロックから離れたがっていた。それほどまでにジャム、そして過去の自分という幻影に苦しんでいたのだ。6月にはパリでスチール撮影をしているが、その頃にこんな発言をしている。
「自分のことをイギリス人だとはもう思ってない。僕らはヨーロッパ人だと思ってるんだ」
一見すればコスモポリタニズムのようにも思えるが、そこには過去の自分と決別したいという意識もあったのかもしれない。
翌1984年に発売されたデビュー・アルバム『カフェ・ブリュ』は、それまで以上にファンを驚かせる内容だった。アルバムはミックによるピアノのインストゥルメンタルで幕を開ける。それはスタイル・カウンシルが、決してポール・ウェラーのソロ・プロジェクトではないと、リスナーに理解させるのに十分な効果を発揮した。
しかし何よりも驚かせたのはジャンルの多様さだ。A面はアルバムのタイトル通りカフェを連想させるような仕上がりで、ジャズ、ボサノヴァ、ラテンなど様々なジャンルの音楽が心地よく流れる。
それがB面になると一気に世界が変わり、今度はソウルやファンク、ヒップホップといったアップテンポな音楽が展開する。『カフェ・ブリュ』はポールが好きな音楽を全部詰め込んだような意欲作だったが、多くの評論家はまとまりのない作品という厳しい評価を下すのだった。
このアルバムについても、ポールは過去から逃れたいことを感じさせる言葉を残している。
「ジャズを入れたのは、他の人の作品みたいに聴こえたらいいなと思ったからさ」
ギター・ロック、イギリス人というアイデンティティ、そして過去の自分の作品。それら全てを捨ててまでポールが求めたのは、誰のものでもないスタイル・カウンシルの音楽であり、新しい自分の音楽だった。
そしてようやくたどり着いたのが1985年6月8日、ポールが27歳の誕生日を迎えてから2週間後にリリースされた2ndアルバム、『アワ・フェイヴァリット・ショップ』だ。ポールはファンクラブの会報で、このアルバムがいかに大切かについて語っている。
「自分の作品についてこんなに自信を持てたのは、これが初めてなんだ。僕にとってはすべてが思いどおりに運んでいる。もうこんな作品は作れないとは言わないけど、これを超えるのは大変だろうね」
その自信は、先行してリリースされた「タンブリング・ダウン」で既に現れている。ギターの鳴りこそ潜めているが、勢いのある力強い8ビートはバンド時代を彷彿とさせるものがある。
『アワ・フェイヴァリット・ショップ』でも、前作同様に様々なジャンルの音楽が登場するが、インストゥルメンタルはタイトル曲の1曲のみになり、一貫したテーマもあった。
「アルバムのテーマは、身近にある現在のイギリスということに絞った。政治的な匂いをあからさまに漂わせたアルバムにするつもりはなくて、ただいい曲を選んだだけなんだ」
『アワ・フェイヴァリット・ショップ』は全英チャート1位を獲得、ポール・ウェラーがようやくたどり着いた音楽は、多くのリスナーやファンから歓迎されるのだった。
参考文献:『ポール・ウェラー My Ever Changing Moods』ジョン・リード著/藤井美保訳(リットーミュージック)
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