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ローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズの死を悼んだ追憶のハイドパーク

2024.07.03

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ロンドン中心部に位置するハイド・パークに1969年7月5日、全英中から25万人以上もの若者が集まってきた。

その日はローリング・ストーンズにとって丸2年ぶりとなるコンサートが、フリー・ライブのかたちで予定されていた。

ギタリストであり創設者でもあったブライアン・ジョーンズが脱退し、新たなギタリストにミック・テイラーが加入することになったのでお披露目をかねていた。

ところが2日前の7月3日午前0時頃、ブライアンが自宅のプールで死体となって発見されたのだ。

享年27。死因は他殺、自殺、事故のいずれなのか、いまだに明らかになっていない。

突然の悲劇ためにフリー・ライブは急遽、ブライアンの追悼コンサートになった。ステージに現れたミック・ジャガーは、19世紀ロマン派の詩人シェリーの詩を冒頭に朗読した。

彼は死んでいないし眠ってもいない
生命の幻想から目覚めたのだ
無益な争いを続ける我々を現実の世界に残した
狂気の中で刃をふるう我々を
無益な現実に残した


ストーンズの始まりはブライアンがピアノ・プレイヤーのイアン・スチュアートと二人で、R&Bのバンドのメンバーを集めたの1962年のことだ。

そこで選ばれたのがミックとキース・リチャーズだった。

やがてビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが加わって、6人組のバンドが誕生する。

ブライアン・ジョーンズが、ブルース・バンドを結成したくて、それぞれのメンバー1人1人に声をかけたんだ。彼がザ・ローリング・ストーンズと名付けた。彼が音楽を選び、彼がリーダーだったんだ。


ビルがこう語っているように、バンドの結成時からメンバー選びやライブの交渉、選曲にいたるまでの一切を仕切っていたのはブライアンだった。

しかし、レコード・デビューを期にマネージャーの職に就いたアンドリュー・オールダムは、ビートルズのような人気バンドを目指して、ルックスが良くないイアンをまずメンバーから外した。

それから5人組のバンドとして、デッカ・レコードと契約したのである。

ストーンズを愛するイアンはそんな処遇にもめげることなく、ロードマネージャー兼キーボーディストとして、バンドと一緒に働く道を選んで死ぬまでずっと行動を共にする。

野心満々の戦略家だったアンドリューは、ストーンズの人気が出てくるにしたがって、レパートリーにおいてもブライアンが主張するR&Bのカバー曲ではなく、多額の著作権印税が収入として入ってくるオリジナル曲を優先していった。

ミックとキースによる曲作りが始まると、全米1位になった「サティスファクション」を筆頭に世界的なヒット曲が続々と生まれた。

当然のことだがミックとキースの作る楽曲が、その後のストーンズの方向性を主導していくことにななる。

音楽的なリーダーとしての役割を奪われたブライアンは、出る幕が減るにしたがって鬱屈し、現実逃避のためにドラッグへの依存度が増していった。

そこに警察に目をつけられて逮捕されるなど、過度のストレスがかかるようになって、次々に新しいドラッグを試していったために、平常の状態でいられることが少なくなった。

スタジオでのレコーディングに姿を見せないことも増えたが、その一方ではあらゆる楽器を扱うマルチ・プレイヤーとして、時々とてつもない才能を発揮した。

キースはその才能に舌を巻いて、「まともな状態でいるときは、頭の回転も動きも信じられないくらい速いんだ。周囲に転がっている楽器を掴んで、とてつもない音を生み出す」と振り返った。

「黒くぬれ(Paint,It Black)」ではインドのシタールを弾きこなし、それまでにないアレンジでヒット曲に貢献した。「アンダー・マイ・サム(Under My Thumb)」では全編でマリンバを叩き、「レディ・ジェーン(Lady Jane)」ではダルシマーを奏でて、楽曲に独特のニュアンスを加えてサウンドを彩っている。



古楽器や民族音楽を奏でるブライアンの才能によって、ストーンズのサウンドは飛躍的に深みが増していった。

だが慢性的なうつ病は日増しに悪化し、レコーディングに来ても演奏に参加できないほどのひどさで、そのうちに休養と入院を繰り返す状態になった。

静かな生活を求めてロンドン郊外のコッチフォード農場に住むようになったのは、1968年の晩秋から冬にかけてのことだ。

にもかかわらず、ロンドンの街をしばしばうろついては、プレイボーイ・クラブなどで時間を潰していた。傍目でみていても、身も心もぼろぼろになっていくばかりだった。

ビルは伝記でこう述べている。

ブライアンの内部でかちかち時を刻んでいた時限爆弾は、いよいよ爆発の時を迎えてしまった。この2年ほどのあいだ、あいつは身体をこわし、ドラッグで逮捕されたことで打ちのめされていたばかりでなく、ストーンズの中にあっても、寂しく、孤独で、見るからに悲しそうだった。


バンドの話し合いの末にローリング・ストーンズから解雇することが決まったのは、ブライアン抜きでレコーディングが進められていたアルバム『レット・イット・ブリード』が完成する寸前、69年6月のことだ。

メンバー内ではすでにブライアンの後継者選びが行われて、レコーディング・セッションに呼ばれた若きギタリストのミック・テイラーが、最適の人材だと選ばれていた。彼を推薦したのはロードマネージャー、イアン・スチュアートだった。

テイラーはメンバーたちとも波長が合ったことから、重要な曲のレコーディングにも参加している。明け方近くまでかかって完成した「ホンキー・トンク・ウィメン」は、レコーディングの場にいた全員がシングル盤としての勝利を確信する、会心の仕上がりとなった。

まさにブライアンとの別れが迫っていたちょうどその頃、こんなにもすばらしい曲をおれたちが収録し終えたなんて、なんとも皮肉で、悲劇的だった。




バンドから解雇するという事実を本人に伝えるために、コッチフォード農場を訪れたのはビルとミック・ジャガーだった。

ブルースに焦がれて自分が作ったバンドを、ブライアンは全員の合意で解雇された。

そしてイギリスで7月4日、アメリカでは7月5日にリリースされた「ホンキー・トンク・ウィメン」は、期待通りにシングルチャートの1位を記録した。


(注)本コラムは2014年2月22日に公開した「追憶のハイドパーク」を、大幅に加筆訂正したものです。
なお亡くなる直前のブライアン・ジョーンズについては、こちらのコラムをお読み下さい


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