60年代後半から70年代と言えば…燻りつづける学園紛争の熱と共に、若者たちの間ではベトナム反戦、安保反対の嵐が吹き荒れていた。
そんな時代を背景に、若者たちが“フォークの神様”と崇めたのは岡林信康だった。
当時、“反体制の英雄”として祭り上げられた岡林を、新聞は芸能欄ではなく社会面で取り上げていたという。
岡林を中心とする関西フォーク勢は、演歌や歌謡曲にはない思想性を持つようになる。
こうして一気に隆盛していったフォークミュージック界における“次の英雄”として登場したのが吉田拓郎だった。
若者たちに絶大な支持を得ていたフォークという音楽ジャンルを、より幅広い層に浸透させた拓郎の功績は大きい。
歌手、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーと、その多彩な才能で多くの作品を生み出しながら、現在も活躍し続けている彼が27歳の頃にどんな状況にあったのか?その青春物語をご紹介します。
1946年4月5日に生まれた彼は、鹿児島県出身の広島県育ちである。
高校時代からバンド活動を始め、1968年に広島フォーク村を結成し本格的に音楽キャリアをスタートさせる。
1970年にフォーク村の仲間たちと自主制作によるオムニバスアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を発表し、注目を浴びるようになる。
同年にエレックレコードから「イメージの詩」と「マークII」をカップリングしたシングルでデビューを果たす。
数ヶ月後に発表した初のフルアルバム『青春の詩』が話題となり、音楽界にその名前が浸透しはじめる。
1971年に発表した「人間なんて」がヒットチャートを駆け上り、フォーク界の寵児として注目を浴びる。
1972年1月、CBSソニー移籍第一弾シングル「結婚しようよ」が50万枚を超す大ヒットとなる。
同年6月にリリースしたシングル「旅の宿」は、シングルチャートの1位を獲得し、売り上げも60万枚を記録する。
翌月に発表したアルバム『元気です』は、アルバムチャート1位を13週独占。
拓郎はこのタイミングでCBSソニーとプロデューサー契約を結ぶ。
その年の10月、26歳の“若き英雄”は日本人として初の全国ツアーをスタートさせる。
ところが…順風満帆に見えた彼に、大きな試練が降りかかることとなる。
それは、彼が27歳を迎えた直後に起きた事件だった。
1973年5月23日の早朝、都内にあった拓郎の自宅に石川県警金沢中署の刑事が3人も押し掛けてくる。
拓郎にかけられた容疑は、婦女暴行致傷というものだった。
その後、拓郎は警視庁の取調室で逮捕され、手錠をかけられたまま金沢に連行されてしまう。
拓郎にとっては、身に覚えのない容疑であったし、到底納得できる逮捕ではなかった。
結果から言えば、その容疑は狂信的なファン(女子大生)による虚言だったのだ。
当時、マスコミが誌面に書き立てた事件内容は以下のようなものだった。
(話に尾びれ背びれが付き、新聞や週刊誌によって内容は異なっていたという)
1973年4月18日深夜、金沢でのコンサートを終えた吉田拓郎は、バンドのメンバー3人と市内繁華街のスナックに入店する。
その店内に被害者(女子大生A子)がいた。
A子は吉田拓郎と意気投合する。
A子と一緒にいたポーイフレンドが気分を害して険悪な雰囲気に…
店を出る際に男が拓郎に向かって捨てゼリフを吐き、それにむかついた拓郎が男の顔を殴る。
唇から血を流していた男は、拓郎のホテルで手当てを受けて一人で帰宅する。
部屋に拓郎とメンバー、一緒についてきたA子、スナックの女子店員が残る。
その後、酒を飲みながら皆でトランプなどに興じながらひと時を過ごす。
そして深夜、拓郎はA子を自分の部屋に連れて行ったという。
金沢中署の発表ではA子は拓郎から20分にわたって監禁され、暴行されかけたが、懸命の抵抗で未遂に終わる。
しかし逮捕から10日後、拓郎は不起訴処分で釈放される。
すべてはA子の狂言だったということが明らかになる。
当時、部屋に鍵はかかっておらず、途中でバンドメンバーが将棋盤を借りに入って来たりもしており、拓郎はA子が部屋を出ていく際、額にキスをしただけ、当然 A子は怪我など一切していなかった。
A子は翌日「拓郎とデートした」と大学で自慢していたという。
それがなぜ暴行致傷になったのだろう?
事の真相はこうだった。
その日、A子は友人の家に泊まると言って朝帰りしたのだが、嘘がばれて両親に責められた際に「吉田拓郎に暴行された」と口走ったのだ。
当時A子には別に婚約者がいた。
その晩のことを知った婚約者は激怒し、A子はとっさについた嘘を引っこめられなくなり、告訴せざるを得なくなったという。
当然、その後に現場にいた人の証言が次々に出て…結局、A子側は告訴を取り下げることとなる。
不起訴になったというものの…その事件によって拓郎の受けたダメージは少なくはなかった。
ツアーは中止となり、彼の曲が使用されているCMは自粛され、他のアーティストに提供した楽曲まで放送禁止となる事態となる。
当時、マスコミはこのスキャンダルを大いに騒ぎ立てたという。
“取材の拒否”や“テレビ出演拒否宣言”など、拓郎の生意気な言動・姿勢に好意的ではなかったマスコミは、ここぞとばかりに“フォーク界の寵児”をこき下ろしたのだ。
勿論、逆告訴するということではっきりとした決着をつけることもできたのであるが、拓郎は母・朝子のこんな言葉で思いとどまったという。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はお前にはない」
母は我が子の冤罪を晴らすことよりも、むしろ加害者である娘の幸せを願ったのである。
その翌年、拓郎は森進一に提供した「襟裳岬」が日本レコード大賞を獲得する。
拓郎の一歳年下となる森も当時、あるスキャンダルに巻き込まれていた。
その頃の森は、虚言癖のあるファンからの謂れの無い中傷誹謗、母親の自殺、マスコミによる根拠のないバッシングなど…耐え難い心労が重なり引退まで考えていた時期だったという。
心ないマスコミのバッシングによって辛酸をなめさせられた拓郎が、同様の境遇にあった森の為に作曲した「襟裳岬」の結びとなる3番の歌詞には、作詞家・岡本おさみの筆によってこんな言葉が乗せられていた。
<引用元・参考文献『昭和歌謡〜流行歌からみえてくる昭和の世相』長田暁二・著(敬文舎)>