岐阜県の椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回全日本フォークジャンボリーは、1971年8月7日の昼から9日未明まで行われた。
そのなかで後世に語り継がれたのは、吉田拓郎(当時はよしだたくろう)が歌った「人間なんて」と、出演予定に入っていなかった無名の三上寛が体を張って見せたライブ・パフォーマンスだった。
初日のメインステージに登場して評判になった三上寛は、翌日もまた、当時のカリスマだった岡林信康の直後という、出演者の誰もが嫌がる時間帯に登場して大観衆の喝采を浴びたのだ。
三上寛はその年の春にデビューしたものの、過激な内容からアルバムが回収されてお蔵入りになり、仕事もなく新宿ゴールデン街のスナック『唯尼庵』でアルバイトをしていた。
たまたま店に来ていたプロデューサーから「明日、中津川でイベントがあるけど行くか?」と聞かれて、ふたつ返事で「じゃあ、行きます」と応えた。
そしてバイトが終わった明け方、店を出るとギターを手にして新宿から長距離バスに乗った。
当時の客は期待していない出演者に対して、平気で「帰れコール」を浴びせるのが普通で、それがほとんど儀式化していた。しかし風采が上がらない三上寛は、歓迎された数少ない例外だった。
とはいえ、見るからに場違いな短髪、あか抜けない田舎のあんちゃん風といういでたちだから、最初にあがった歓声はからかい混じりの嬌声だ。
半分馬鹿にされながら迎えられたことは、もちろん本人にもよくわかっていた。
そもそも出演書の予定にも入っていなかった無名の歌手、どこの誰だかわからない男が歓迎されるはずもない。
だがステージに立った三上寛は猛烈なエネルギーを発して「いくぞ!」と吠えると、誰もが知っている「夢は夜ひらく」にのせてオリジナルの歌詞を歌い始めた。(注)
全身全霊を込めて歌う姿に、からかいの嬌声が本物の歓声に変わった。
青森県の津軽から3年前。柳行李ひとつと3千円だけを握って上京した青年は、ここから日本で最もラジカルな唄を歌うフォーク歌手として、本格的に歌手生活を歩み始めることになる。
3年前に岡林信康の「山谷ブルース」を聞いて歌に目覚めた三上寛が、カリスマだった岡林信康の後に登場して賞賛を浴びたその夜のライブは、日野皓正クィンテットから安田南+鈴木勲カルテットに受け継がれた演奏中に中断した。
隊列を組んで「ジャンボリー粉砕!」を叫ぶ300人ほどが、ステージに乱入したのだ。会場はヤジと怒号で騒然となり、様々な参加者が入り乱れて朝まで不毛な討論会が続いた。
だが、中身のない論議に一般の観客は次第に嫌気が差し、コンサートはそのままなし崩しに終了してしまった。
イベントそのものがその日で終焉を迎えたことで、全日本フォークジャンボリーもまた伝説化していく。
<こちらの記事もご参照ください>
・岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた板前見習いの若者が起こした行動
・「人間なんて」を生音で歌って伝説になったよしだたくろう~第3回全日本フォークジャンボリー
(注)なおこの時の三上寛のライブは、URCからの実況録音盤に放送禁止用語を含めてほぼノーカットで収録された。
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