アメリカにおけるモダンフォークブームの先頭に立ち、ブレイク前のボブ・ディランを世に紹介したジョーン・バエズ。
ベトナム戦争が深刻さを深めていくにつれて、彼女は反戦の思想を込めた「We Shall Overcome(勝利を我らに)」などのプロテストソングを高らかに歌うようになる。
1966年、当時25歳だった彼女は徴兵拒否で投獄中だった社会活動家デヴィッド・ハリスと結婚し、ますますその傾向を強くしていく。
翌1967年(当時26歳)の1月に彼女は初めての来日公演を行なう。
その頃、日本は安保闘争が活発化しており“激動の季節”を迎えていた。
各地を公演して回った彼女は、ステージ上から日本人の聴衆に向かってまずこう語りかけたという。
「私は歌手であるよりもまず人間。次に平和主義者です。」
そして「雨を汚したのは誰」や「サイゴンの花嫁」といった反戦歌を披露し、日本の若者たちと心を通わせたのだ。
この年、日本では森山良子(当時19歳)が“和製ジョーン・バエズ”と呼ばれてデビューを果たした。
翌1968年、27歳を迎えた彼女はメイナード・ソロモン(アメリカのクラシック系インディペンデントレーベルの雄ヴァンガードレコードの創設者の一人)からレコーディングの誘いを受ける。
「詩人たちが残した詩を朗読し、伴奏つきで歌ったりするアルバムを作らないか?という提案でした。とても実験的な内容だったけど魅力を感じました。そして私は“Baptism: A Journey Through Our Time”という作品を発表した。ランボー、ウィリアム・ブレイク、ジェイムズ・ジョイスなどが書いた詩にクラシック風の伴奏がつけられていたわ。売り上げも上々でチャート入りをしたことには驚いた。私のファンは音楽的実験を許容する力を持っていたってことね。」
その年の9月、彼女はナッシュビルで立て続けにレコーディングを行なっている。
次にスタジオ入りしたのは『David’s Album』(1969年5月発表)と、全曲ボブ・ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『Any Day Now』(1968年12月発表)のためだった。
同作からシングルカットされた「Love Is Just a Four-Letter Word」は、以降、彼女のコンサートの定番曲のひとつとなった。
「ナッシュビルで録音するのは好きだったわ。私はスタジオの床一面にボビーが紡いだ曲の楽譜を無造作に広げて、目をつむって指を指して選曲したの。そうやって選んだ曲をかたっぱしから歌ったのを憶えてるわ。」
翌年、28歳になった彼女は演奏旅行で稼いだギャラやレコード印税のほとんどを平和運動に寄付したり、徴兵反対運動のために時間を使った。
彼女は、かつて腰まであった黒髪をバッサリを切った。
当時、彼女のコンサートのパンフレットには直筆でこんな言葉が綴られている。
幼い頃、私が大人になってなりたかったもの。
看護婦、獣医、チェリスト、ヒーロー、美人、決して歌手にはなりたくない。
私は歌手ではない。
私は歌う、私は戦う、私は泣く、私は祈る、私は笑う、私は働き、そして不思議に思う。
娯楽産業は、私のことを報道する時に書き立てる。
どのようにして私がスタートを切ったのか?
どこで歌ってきたのか?
どんな栄誉を受けたのか?
しかし、率直に言って“フォークシンガーのジョーン・バエズ”などはいない。
28歳、妊娠中で夫が徴兵を拒否して徴兵反対運動を組織したため3年の刑を受けて下獄したばかり…それが私です。
あなた方を刺激し、思い起こさせ、あなた方に喜びを、あるいは悲しみを、怒りをもたらすために私は歌う。
生命のことをよく考えて下さい。
何ものにもまして生命を大切に。
国よりも、法律よりも、営利よりも、契約よりも、あらゆるものより大切に。
<引用元・参考文献『ジョーン・バエズ自伝―WE SHALL OVERCOME』ジョーン・バエズ (著)矢沢寛(翻訳)佐藤ひろみ(翻訳)/ 晶文社>