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ウィルコ・ジョンソンとフェンダーテレキャスター〜喉から手が出るほど欲しかった憧れのギターを手に入れるまで

2024.11.21

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ウィルコ・ジョンソンの“相棒”と言えば、フェンダーテレキャスターである。

「そのテレキャスターはサウスエンドの楽器屋のショーウィンドウに陳列されていたが、とても手が出ないほどの高価だった。一般的な労働者階級の平均賃金が1週につき15〜20ポンドだった時代に、そのテレキャスターは107ポンドの値札をつけていた。俺は生まれて初めてこれほどまでに欲しいという対象に出会ってしまった」


ウィルコ・ジョンソンのキャリアが始まったのは、1970年代初頭のこと。イギリスのパブロックシーンを牽引し、後のパンクロックムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドを皮切りに、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきた。

“マシンガンギター”の異名を持つ、ピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。

ウィルコ・ジョンソンは、“相棒”のフェンダー・テレキャスターとどんな風に出会ったのか?


それは1960年代初頭、イギリスではローリング・ストーンズが世に出た時代だった。ブライアン・ジョーンズが率いるそのバンドは、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったアメリカのR&RやR&Bのアーティストに加え、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフを筆頭に、チェス・レコードに所属するブルースマンたちの音楽をルーツとする刺激的な演奏でファンを熱狂させていた。

「ストーンズのアプローチはまさに俺がやりたいことだった。ストーンズも良かったが、俺には偉大なギターヒーローがいたんだ。ジョニー・キッド&ザ・パイレーツでプレイしていたミック・グリーンだ。

初めて彼のギターを聴いた日のことは今でも忘れられないよ。自宅のリビングでさり気なく耳を傾けていたラジオ番組で、DJが意気揚揚と彼らのシングル曲を紹介したんだ。次の瞬間“I’ll Never Get Over You”のイントロが流れて、俺は静止画像のように身体を一時停止させいたんだ。

歯切れのいいコードプレイ、シンプルで力強いギターソロ、そしてリズムとリードのパートを一人二役でこなすテクニック。最高にイカしていたよ!俺は自分がやるべきことがはっきりわかったんだ!」



ミック・グリーンのプレイに関するウィルコの綿密な研究心は、日を追うごとに加熱していった。15歳のクリスマスに親にねだって買ってもらったワトキンス・レイピアというコピー品を弾いていた彼にとって、どうしても物足りないものが一つあった。

それはミック・グリーンが使用していた本物のフェンダー・テレキャスター。

当時、イギリスでビートルズ世代として名を上げたバンドは、皆ギブソンやリッケンバッカーを使用していた。フェンダー・テレキャスターは、当時人気があったわけでもないので、長い間ショーウィンドウ内で売れ残っていたという。

在庫を早く換金しようとする楽器屋は、当初の107ポンドから100ポンドへ、そして90ポンドへと徐々に価格を下げてきた。ある日、彼は楽器屋にこんな話を持ちかけた。

「頭金を10ポンド預けるよ。そして毎週できる限り支払いを続けるよ。だからそのフェンダー・テレキャスターを取り置き扱いにしてくれないか?」


渋々承諾した楽器屋は、彼に支払いカードを発行した。毎週土曜日になると彼は店に出向き、切り詰めた食費や交通費など、とにかく有り金をすべて払い込んだ。

「俺が頑張って貯めた数ポンドとシリングとペンスを差し出すと、店員がテレキャスターを倉庫から出してきてくれた。俺は閉店時間がくるまでそいつをプレイしたり、じっと見つめたり、ペグやボリュームノブをいじったりしながら、ミック・グリーンになりきった時間を過ごしていた。やがて閉店時間がくるとギターは倉庫に戻され、俺はバス代を節約するため歩いて家に帰った」


学生時代にはバンドを結成して、地元の労働者向けのパブなどで演奏する日々。ニューカッスル大学で英文学を学ぶことになると、しばらくギターから遠ざかることとなる。

教師になる夢を抱いていたウィルコは、在学中(1968年/当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンド、アイリーン・ナイトと結婚し2人の息子をもうける。

そして21歳の時、妻アイリーンの理解と援助のおかげで、念願のフェンダー・テレキャスターを手に入れることとなる。それまでウィルコが楽器屋に支払った額は、まだ提示された半額にも達していなかった。そんな彼を救ってくれたのがアイリーンだった。

彼女の郵便貯金の残高が、テレキャスターの支払い残高とピッタリ一致していたのだ。彼女は実家の親に黙って口座から預金を引き出し、彼に手渡した。翌日からフェンダー・テレキャスターは“彼のもの”となった。

大学卒業後、ウィルコはインドとネパールを放浪し、帰国後は地元の高校で母国語教師の職に就く。1971年(当時24歳)、リー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われ、いよいよドクター・フィールグッドとして活動をスタートさせた。


<参考文献『不滅療法〜ウィルコ・ジョンソン自伝〜』ウィルコ・ジョンソン(著))石川千晶(翻訳)/リットーミュージック>


『Down by the Jetty』

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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

【公演スケジュール】
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