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無名の少年たちだったジャニーズを特訓してレギュラーに抜擢~伝説のディレクター末盛憲彦

2017.08.10

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ジャニーズがショービジネスの世界にデビューしたのは、NHK総合でオンエアされていたテレビ番組への出演だった。

日本のテレビ史に語り継がれる先駆的な音楽バラエティ『夢であいましょう』は、1961年4月8日から5年間にわたって毎週土曜日の夜に放送されていた。
〈参照コラム〉黒柳徹子がその独特な持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』

音楽のバラエティ番組としては1958年から始まった日本テレビの『光子の窓』が先輩だが、この番組はアメリカの『ペリー・コモ・ショー』をべースにしていた。
しかしNHKのディレクターだった末盛憲彦をはじめとするスタッフたちが意図したのは、アメリカの人気番組をコピーするのではなく、江戸っ子の粋でいなせな文化を現代に受け継ぎながらも、そこに洒落たジャズやポピュラー音楽、最新のダンスを組み合わせることだった。


ゲストを迎えて特集を組むこともあったが、基本は毎回のテーマごとに短いコントでつないで、それをはさむようにレギュラー出演者の歌や踊りが披露されていく。
目で楽しめる音楽を目指して、曲ごとにセットを変えたのは末盛の発案だった。

また構成作家には永六輔、音楽監督に中村八大を迎えたのも慧眼だったといえる。

「何かの真似はしたくなかった」と永六輔がいうように、オリジナルな点にこだわって一線を画すために、番組のコーナー「今月の歌」で書き下ろしの新曲を発表していくことにした。

永六輔の作詞、中村八大の作・編曲による”六・八コンビ”の作品からは、「上を向いて歩こう」(歌:坂本九)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「帰ろかな」(北島三郎)など多くのヒット曲が生まれた。
それらは世代を超えて今もなお、スタンダード・ソングとして歌い継がれている。

まだ無名だったジャニーズの4人が”踊る少年たち”として、テレビに初出演したのは1962年8月4日の「今月の歌」のなかだった。
その日に初めて歌われた「いつもの小道で」は、まだ17歳でレコード・デビューをする前だった新人歌手、田辺靖雄のために書かれたものである。

「いつもの小道で」
作詞:永六輔 作・編曲:中村八大

いつもの小道で目と目があった
いつものように目と目をそらせた
通りすぎるだけの二人のデイト

いつもの小道で手と手が触れた
いつものように 手と手ははなれた
通りすぎるだけの 二人のデイト


ジャニーズのマネージャーだったジャニー喜多川は、番組に起用してくれたディレクターの末盛についてこう語っている。

スターの素質を見抜く目が抜群だったと思う。いろんな思い出があるけれど、「夢あい」の時のジャニーズがお付き合いの始まりです。
「今月の歌」の田辺靖雄の「いつもの小道」でのバックに男の子が要ると聞いてジャニーズを連れて行ったわけですが、「何か衣装を探しましょう」といって、一緒に銀座のデパートを一日中歩きまわったのです。
あんまり若いし、腰が低いので、アシスタントだと信じていたのですがスタジオに行ってみて、ディレクターだったので、本当に驚きました。
「今月の歌」のバックに出て、次の週のリハーサルの時に、前回のキネコを見た時、他の出演者達が「なあにこれ、なんて下手なの」といって笑いました。(注)
すると、その晩末盛さんはジャニーズに徹夜で練習をしてくれたんです、自分で歌いリズムをとりながら。
それで翌日の本番には、すこし良くなっていた。
そして次の週の為には一週間みっちり練習をしてすごく良くなった。
そして次の週、即ち一ヵ月後にはすっかり人気者になっていて、レギュラーになったのです。
忘れられないスタートです。


ジャニーズはそれからダンスとヴォーカルのレッスンを積み重ねて、日本で最初の歌って踊れるグループへと成長していく。
そして2年後の8月には「今月の歌」で、オリジナル・ソング「若い涙」を歌うまでになった。

1966年4月に『夢であいましょう』が終了すると、末盛は1年間の準備期間をかけて新しい大型の音楽番組をスタートさせている。
当時の新聞記事には、そのことがこうに紹介されていた。

華やかに歌と演奏を・・・音楽の花ひらく(よる9・40、NHK)
新しい音楽ショーの公開番組。三橋達也が司会、中村八大が音楽を担当、山本直純が指揮する東京ロイヤルポップス、東京混声合唱団らがレギュラー出演し、華やかに歌と演奏をくりひろげる。
きょうの曲目は「若い涙」(ジャニーズ)「春の歌」(中村邦子とクラリネット・鈴木章治)、「王将」(ロイヤルポップス)、「愛の賛歌」(越路吹雪)ほか。
(朝日新聞 1967年4月5日)


ここでは司会者の三橋達也と越路吹雪、それをかこむように並んだジャニーズの写真が掲載された。
もうこの段階でジャニーズが、一流のタレントという扱いをされていたことがわかる。

また公開番組の演出ということについて、末盛はこのように述べていた。

演出といっても別にないのです。みんながやっているたのしさをいかにとらえるか、ということだけに集中しているのです。ですから、画面を凝るとか、照明を凝ってもらうとか、音で細工してもらうというふうなことはいっさいなしにして、ステージに出ている音とお客さんの拍手、笑い声、ざわめき、赤ちゃんの泣き声、そういう雑音も含めて、その中で起こっていることをそのまま伝えたいな、と思っています。 


ジャニーズを自ら特訓してレギュラーに抜擢した伝説のディレクター、末盛はその後もNHKの音楽番組における新分野の開拓者的な存在として、オーディションによって選んだ若者の『ステージ101』や、一人のスターにスポットを当てたワンマンショー形式の『ビッグショー』、タモリをレギュラー出演者に抜擢した『テレビファソラシド』などを手がけた。

しかし1983年8月10日の朝、自宅で倒れて54歳で急逝。
その翌年、夫人の末盛千枝子さんによって「テレビディレクター 末盛憲彦の世界」が、一周忌に私家版として出版された。





(注)キネコとはテレビの画面を16ミリカメラで撮影して記録したフィルムのことです。当時は生放送でビデオがない時代だったために、出演者も演出者も実際の画面を見られませんでした。そこでディレクターの末盛は前の週の番組を、リハーサルの前に見せることで出演者に勉強してもらっていたのです。
なお、ジャニー喜多川氏の発言は、「テレビディレクター 末盛憲彦の世界」からの引用です。

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