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姿を消したディランを再び表舞台へと導いたウディ・ガスリー追悼コンサート

2016.01.20

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ウディ・ガスリーは、フォークソングの父とも称される人物だ。
1912年にオクラホマで生まれ、大恐慌時代のアメリカを放浪し、各地のフォーク・ソングを歌い継ぎながら、貧困に直面した人々の暮らしを詩にしていき、“ダスト・ボール・トゥルバドゥール(砂嵐の吟遊詩人)”の愛称で親しまれた。



ウディ・ガスリーのレコードを初めて聴いたときの衝撃を、ボブ・ディランは自伝でこう綴っている。

初めて彼の歌を聞いたときは、百万メガトンの爆弾が落ちてきたようだった。


それは1959年、ディランがミネソタ大学に通うため地元ヒビングの家を離れ、ミネアポリスの寮で新たな生活をスタートさせた頃のことだった。
フォークの世界にのめり込んでいったディランは、エレキギターを売り払ってアコースティックギターに持ち替え、人前でフォーク・ソングを歌い始める。

そんなある日、ウディ・ガスリーのレコードを聴いたディランは、その言葉、歌い方、世界観などあらゆる面で圧倒されて最高の弟子になることを志した。
そして取り憑かれたようにレコードを聴いては、次々とガスリーの曲を覚えていくのだった。

ディランがウディ・ガスリーを追いかけるようにニューヨークへとやってきたのは1961年のことだ。
この頃ガスリーはハンチントン病という遺伝性の病気の治療で、精神病院を入退院する日々を送っていたが、ディランは病室を何度も訪ねては、ガスリーの曲を本人の前で歌い、様々なアドバイスをもらった。

そのウディ・ガスリーが亡くなったのは1967年10月3日、享年55歳だった。
そして1968年の1月20日、カーネギーホールで追悼コンサートが開催されることとなる。
出演者はボブ・ディランの他にピート・シーガー、ジュディ・コリンズ、ジャック・エリオットなどで、ガスリーと縁の深い、あるいは影響を大きく受けたフォーク・シンガーたちが顔を揃えた。

当時、ディランは表舞台から姿を消し、隠居生活を送っていた。
1965年にエレキギターを手にして以来、ステージに上がるたびに厳格なフォーク・ファンから激しいブーイングを浴びるようになったディランは、のちにザ・バンドとなるホークスをサポートに迎えて、一歩も退くことなく真っ向からブーイングに向かっていった。
ところが1966年の7月29日に自宅近くでバイク事故で首の骨を折るという重傷を負ってしまい、活動休止を余儀なくされたディランは、退院後も家族とともにしばしの休養をとるのだった。

およそ1年8ヶ月ぶりにボブ・ディランがステージに上がるということもあり、チケットは完売、カーネギーホールには大勢のファンが集まった。

久々にファンの前に姿を現したディランは、濃いグレーのスーツを身にまとい、髭を蓄えていた。
そしてザ・バンドの力強い演奏をバックに、次々とウディ・ガスリーの残した歌を歌っていく。
途中、エレキギターの音が鳴っても、かつてのようなブーイングを浴びることはなかった。


演奏が終わると拍手喝采となり、ディランは笑みを浮かべるのだった。

ディランが完全復帰するまでにはもうしばらくかかるのだが、このコンサートはエレクトリックでロックなサウンドがフォーク・ファンに受け入れられたという意味で、大きな足がかりとなった。

再び人々の前に姿を現すことになるのは翌1969年、ジョニー・キャッシュがホストを務めるテレビ番組の記念すべき第1回目でのことだ。
詳しくはこちらのコラムで

ウディ・ガスリー、そしてジョニー・キャッシュと、尊敬するミュージシャンたちに導かれるようにして、ボブ・ディランは表舞台へと返り咲いていくのだった。

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