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追悼・森田童子~「いまわたしは わたしたちの過ぎていった青春たちに 静かにとても静かに 愛をこめて唄いたい」

2018.06.12

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初めて森田童子に会ったのは、1975年10月のある日のことだ。
大学を出て音楽業界で働くようになり、主にフォークやロックの分野で原稿を書き始めていた当時のぼくは23歳だった。

「さよならぼくのともだち」というシングル盤でレコードデビューすることになった森田童子は、ぼくと同じ1952年の生まれで、誕生日は1週間しか違わなかった。
しかも小劇場の演劇などに関わってきたことから、音楽の道に入ってきたところもやや共通していた。

だが事前にレコード会社から渡されていたテスト盤のレコードを聞いて、あまりに繊細でこわれもののような印象を受けて、取材するのがいささか億劫に思えたのも事実だ。
その年の1月に行われたRCサクセションの取材時と同じように、なかなか口を開いてくれないような予感がしたのである。



レコード・デビューが決まったときに作成された簡単な資料の中には、彼女が歌で伝えたい思いがこのように記されていた。

MESSAGE
いまわたしは わたしたちの過ぎていった青春たちに 静かにとても静かに 愛をこめて唄いたい。
(森田童子)


森田童子が「歌う」ではなく、「唄う」という表記をしていたことにぼくは興味を持った。
「歌」が届く範囲は大きいが、「唄」だとずっと小さい感じがする。

彼女が「愛を込めて唄いたい」のは、「ことば」に込められた思いを共有できる、限られた人ではなかったか。
「青春たち」という言葉からは、友人もしくは同士への強いこだわりが感じられた。

過ぎさっていった「青春たち」への徹底したこだわりこそが歌う力となっているということは、「さよならぼくのともだち」を聴き始めた瞬間から、明確に伝わってきた。
そういう「言葉」の人だからこそ、間違いなく初対面の人と話しをするのが苦手だろうと思った。
思いが言葉とともに作品に込められているとすれば、それ以上を「言葉」で語る必要はないはずだ。



実際に取材の日に会ってみて、予想はすべて的中していたことがわかった。
ミラー加工された大きなサングラスの森田童子は、ほとんど自ら言葉を発しなかったし、喜怒哀楽といった表情も見せることもなかった。

ぼくは当然だと思った。
言葉で話せないから、彼女は歌を作り、唄ったのだ。
だが、取材を嫌がっているようでなかったのは救いだった。

彼女のかわりに原盤制作をしていたJ&Kの麻生静子氏と、ポリドールレコードの宣伝プロデューサーだった市川義夫氏が、わかる範囲でぼくの質問に答えてくれた。

無理に話を聞き出そうとは思わなかったのが良かったのか、高校時代に同じような体験をしたことがわかったせいか、どこか通じ合えているような感覚になった。

そのうちに彼女のほうから、ときおり質問に答えてくれていた。
そうした数少ない発言の中から、ぼくはこんな断片的なフレーズをメモに残していた。

「言葉の確かさから出発した音楽」
「何よりも言葉が大切」
「私のあまっちょろい言葉を打ち消す音が欲しかった」
「(オートバイの)生のブルンブルンという音が、私にとって必要だった」


彼女を見出した麻生氏が説明してくれた話では、普通とは違うレコーディングの方法が興味深かった。。
当時のレコーディングではシンガー・ソングライターの場合、まずミュージシャンたちと一緒にスタジオでセッションして、バックの音を録音してから必要な音をダビングしていくのが標準的であった。
しかし極端に人見知りする森田童子の場合は、最初に一人だけで歌とギターを録音しておいて、そこにミュージシャンたちがいろいろな音をかぶせて仕上げたという。

それでも「何よりも言葉が大切」なので、よく伝わらない箇所や聞き取りにくいところでは、ベースの音を絞ったりミュートしたそうだ。
シングルに続いて発売したアルバム『GOOD BYE』で、ドラムの音を全く使用していないのもそうした理由だった。

そのかわりに楽器でなく、効果音や擬音が随所に使われることになったところは演劇的な発想だった。
アルバムのA面では1曲目の「早春にて」で、歌の終わりに耳を突くようなジェット機の撃音、「地平線」では強烈な雷が入っている。
また「雨のクロール」はレベルが最初から低く録音されていて、後半だけが普通のレベルになる。
その分だけ音像が近づいて、強いイメージを与えるようにしたのだという。

それらのアイデアや希望はいずれも、森田童子の意向によるものだった。



アルバムの全体から受けるのは強いセンチメンタリズムで、歌詞と歌声による悲しさや寂しさ、いたたまれなさと孤独感が音楽によって強調されている。
その日の取材の最後に、生でも歌を伝えたいので、6大都市のライブスポットを年内に回るという話が出た。

歌をつくる人=ソングライターではあっても、シンガーとしての面は表に出してこなかった森田童子が、コンサートなどにも出ていという。
商業主義的な傾向が強い音楽業界のなかで、そうした活動を行うことに本人は不安が大きいであろうと思って、そこのところをたずねてみると、「とてもむずかしいことだと思う」と正直な言葉が返ってきた。

それから「感覚も体力という気がしてくるので、そのためにラジオ体操も始めたんです」と言ったのだが、そのときに森田童子がサングラスの奥で、初めて小さな笑みをもらしたように思えた。

ご冥福をお祈りします。

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