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「カムバック・スペシャル」で完全復活を果たすまで②~エルヴィスを支えていた思いとは?

2018.09.07

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自分をとりまくビジネスにしか関心がなかったパーカー大佐は、短期間に完成する低予算の作品にしか興味を示さず、どんなに良質な映画だろうと持ち込まれても見向きもしなかった。
『ウェストサイドストーリー』も『真夜中のカウボーイ』も、企画の段階であっさりパーカー大佐に却下されてしまったという。

その意味でエルヴィスが期待を寄せていたのは、パラマウントの映画プロデューサーだったハル・B・ウォリスだった。
戦時中の『マルタの鷹』と『カサブランカ』で知られるウォリスは、戦後も『OK牧場の決闘』などを手がけていて、単なる娯楽作品以上の文芸作品で名作をつくることに定評があった。

スクリーン・テストでエルヴィスに映画スターへの可能性を見出してくれたのもウォリスだったし、初期の代表作の『闇に響く声』をプロデュースしたほか、大ヒットした『G・I・ブルース』や『ブルー・ハワイ』なども彼の仕事だった。

ところがエルヴィスは映画雑誌を読んでいて、『ベケット』のような芸術的作品の資金調達のために、低予算で確実に収益が上がるプレスリー映画から得た利益を役立てていると、ウォリス自身が語っていることを知ってしまったのだ。



1964年に公開された『ベケット』に主演したのは、イギリスの名優といわれるリチャード・バートンとピーター・オトゥールで、ふたりは65年のオスカーで主演男優賞にノミネートされた。

最終的に『ベケット』は作品賞、監督賞、撮影章、作曲賞、美術賞、編集賞などの部門でノミネートされて、エドワード・アンハルトが脚色賞を受賞することになった。
エドワードはエルヴィスの低予算作品『ガール!ガール!ガール!』を書いていた脚本家だった。

シリアスな演技のできる映画俳優を目指していたエルヴィスは、こうした現実に目をそらさず向き合ってみることで、ハリウッドとパーカー大佐に都合よく利用されているとわかってきたのだろう。



そして金儲けだけを目的としたつまらない映画のために消費されていく、自分のキャリアと時間に危機感を抱いくようになり、音楽や映画の世界で表現者として生きていかねばならないと、真剣に将来を考え始めたのだ。

「なぜ自分はエルヴィスなのか? なぜ自分はエルヴィス・プレスリーとなるよう、選び取られたのか?」


そんな時期にパーカー大佐の判断で、あまり気乗りしないのに対面させられたのがビートルズだった。

ただしパーカー大佐がどうしてその対面に乗り気になったのかは、今ひとつ判然としないところもある。
エルヴィスを聴いて育った外国の少年たちが次の時代のロックンロールで頂点に立ったことを、エルヴィスとして大いに利用できると考えたのかもしれない。
ロックンロールを卒業して大人のバラードシンガーになったエルヴィスと、子どもたち相手のビートルズは守備範囲が異なると見なしていた。

もうひとつは28歳で世界的な成功を掴んだマネージャーのブライアン・エプスタインと知り合って、先輩である自分のいうことを聞くようにと仕向けていく狙いがあった。
これは自分自身の影響力を維持するためで、警備の問題でブライアンが実際に相談に乗ってもらうなどして、ある程度は関係が築けていたようだ。

ところでエルヴィスはこの出会いのおかげで、ビートルズは4人が個人として存在していることや、マネージャーに言われるままではなく、自分たちの考えで自由に行動していることを知った。

それによってジョンには困惑と怒りを感じさせられたのだが、それと同時にもっと深く自分で思考することの必要性を、あらためて理解したと考えられる。

「どうして最近はやわなバラードばかりなんですか?」
「ロックンロールはどうしたんですか?」


エルヴィスは辛辣で正直だったジョンの言葉や態度を手がかりに、少しづつ自分の意識改革に取り組んでいったのではないか。
それまで完全に服従するだけだったパーカー大佐に対して、反抗までは出来なかったが面従腹背という手を使って、自分の意志を曲げないようになっていったのだ。
そのことがロックンロールのキングとして、完全復活を遂げることに結びついていったのである。



1966年に行われたアルバム『偉大なるかな神(How Great Thou Art)』のレコーディングがその第一歩で、映画のサントラ以外のレコード制作は約3年ぶりだった。
ほとんどあきらめていたレコードづくりにおいても、エルヴィスは若かった頃の情熱を取り戻して、ライフワークとして大切にしていたゴスペルに取り組んだ。

1967年2月にリリースされたアルバムはポップスではないのに、全米18位のヒットとなって低迷していたこの時期にしては、かなり上々の結果を出すことができた。
しかも1967年のグラミー賞ではエルヴィスにとって初のグラミー賞、「ベスト・セイクレット・パフォーマンス」をもたらしたのである。

このときに新しい担当ディレクターとして現場についたのがフェルトン・ジャーヴィスで、こうした有能な人材との出会いからも状況が少しずつ変化していく。

こうして徐々に自信を取り戻したエルヴィスは、少なくとも音楽制作においてはパーカー大佐の言いなりではなくなる。
そこから68年の奇跡のカムバックへと、完全復活への道が開けていった。


<参考文献>・トニー・バーロウ著 高見展・中村明子・越膳こずえ・及川和恵 訳『ビートルズ売り出し中! PRマンが見た4人の素顔』 (河出書房新社)
・アラナ・ナッシュ著 青林霞訳 赤沢忠之監修「エルヴィス・プレスリー-メンフィス・マフィアの証言-上」(共同プレス)
・クリス ハッチンス&ピーター トンプスン 著  高橋 あき子 訳「エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ」(シンコーミュージック)


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