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月刊キヨシ

マドンナ戦記〜時代を変えたと言われた女はどう戦ったのか

2023.08.15

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イースト・ヴィレッジの公園にて


その公園は真夜中を過ぎても無人ではなかった。歩き続けてゆくと、暗闇のなかにほつりほつりとオレンジ色の光のかたまりが浮かびあがる。ホームレスたちの手助けしているのだろう、吊り下げられた工事燈に照らし出された若い男たちの表情が人なつこい。

その公園は、ハンバーガーで知られるようになった。ニューヨーク東4丁目232番地。イースト・ヴィレッジのアパートで暮らしていた頃、公園のごみ箱からハンバーガーを拾って食べたという逸話があった。そこがこの「ワシントン・スクエア・パーク」だった。

この時期、マドンナは当て一つ見つからないデビューの道を探りながら、汗まみれのダンス・トレーニングに一日の大半を費やしていた。

「ダンスに4時間、ドラムに4時間なんて日もあった。部屋代を払ったら一文なし、口に入るものなら、なんでも食べた」


公園に集ったのはホームレスばかりではなかった。ミュージシャン、詩人、ゲイ、作家の卵、振付師……。夢を抱きながらも、抜けだしてゆけた者は稀だった。マドンナはデビューを果たすまで、イースト・ヴィレッジにとどまった。ダンスやヴォーカルの師としてマドンナが頼りにしたのは、ほとんどがヴィレッジの住人たちだった。「ストリートで生まれるセンスやエネルギーやインスピレーションを巧みにとらえる天性を備えたダンサーであり、アーティストだった」と書かれたのは後のことだ。

タイムズ・スクエア


父親はデトロイトに渡ってきたイタリア移民一世の出身で、6人の子だくさん。貧しかったが昔ながらのつましい暮らしだった。余りないことだったが、母親は長女に自分と同じ名を授けた。母の愛を一身に集めたマドンナが最愛の母と生き別れになるのは、母が30歳、マドンナが5歳になった時のことだった。その後の一家の変わり様をみると、母を癌で失う不幸がなければ、彼女は家を捨てることなく本名のマドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコリーニのままで終わったかもしれない。

デビュー前、苦楽を共にしたカミール・バーボンという女性プロデューサーはこんなことを語っている。マドンナは、これはと決めたパートナーとまるで一心同体のように仕事をした。だが成功が続いて絶頂と思えるある日、マドンナは突然ありがとうと手を差しのべる。これが覆ることはない。

「ひどい仕打ちだったけれど、うらんではいないわ。子供のとき、お母さんと別れたからよ。母さんはいつか消えてしまう。それがこわいから、言われる前に自分の方から先に別れを言うのよ」


MTVの勢いを奪って


ワーナー・レコードがまったくの偶然からマドンナを発見したのも、一本のオーディションテープであったというように、1970年代末の音楽シーンは、ヴィジュアルの時代に向かって大きく様変わりしようとしていた。

その先導役を果たしたのは1980年のMTVの開局であり、マドンナは幸運にもその大きなうねりに乗った最初のアーティストとなった。そのブレイクの記録を物語る『The Immaculate Collection』にもスケールの違いがはっきり現れている。このアルバムにはヒット曲が15曲、チャート1位をとった曲だけでも8曲が収録されている。

むろんマドンナの才能と実力あってのことだが、全世界3000万枚という記録的な売上げは、ビデオクリップを24時間休まず流し続けるMTVの圧倒的なプロモーションの威力を世界に示す機会となった。

エヴィータ・バッシング


『Evita』はアルゼンチン大統領ファン・ペロンの妻、エヴァ・ペロン(1919~1952)を題材にとった戯曲。アンドリュー・ロイド・ウエーバーによって書かれ、1978年に英国で初演。翌年にはブロードウェイでも上演され、トニー賞を受賞するほどの成功を収めたことから、映画版・エヴィータの話が持ち上がった。問題は、その主演女優にマドンナが選ばれたことから始まった。

1996年2月7日、マドンナはアルゼンチン大統領官邸へ向かう車の中にいた。シートにではない。顔を隠すために、車床に両手をついて這いつくばっていたのだ。「マドンナ帰れ!」の貼り紙は、ブエノスアイレスの至るところにあった。その日、撮影を巡って大統領に直訴するためマドンナが来るという情報が伝えられると、混乱を恐れた政府はマドンナの官邸入りを禁止した。

エヴィータ(エヴァ・ペロン)は貧しい村の生まれから、第15代アルゼンチン大統領ファン・ペロンの二人目の妻となった女性で、窮地にあった夫を救い、労働者階級の支持を集めて婦人参政権を実現させるなど国民に絶大な人気があり、アルゼンチンでは永遠の聖女とまで呼ばれていた。その役を、きわどい衣装で不道徳的な歌を歌うポップシンガーになぜという強い怒りが国民の中にうずまいていた。

おりあしくもアルゼンチンは、1982年に領有問題を巡って、鉄の女ことサッチャーのイギリスを見くびって大敗。国の威信を大きく傷つけたフォークランド紛争の余韻がまだくすぶっていた。マドンナを受け入れることは、恥の上塗りとまで考える国民感情もあったのだ。

しかし、逆風にひるむことなく、マドンナは大統領を動かして道を切り開いてゆく。結婚前に女優やモデルとして長年下積み生活を重ねたというエヴィータの境遇に、自分を重ねていたのだという。

『Evita』のクライマックスとなるアルゼンチン大統領官邸、カサ・ロサータのバルコニー。万が一に備えて、ロンドンには巨費を投じた官邸の再現セットが組まれていた。しかし、悲願通りにマドンナは、ブエノスアイレスの実際の大統領官邸で撮影を決行する。

当日の官邸広場には、エキストラとして参加した4000人のブエノスアイレス住民たちがつめかけていた。マドンナが夢に見た光景だ。万感の思いをこめ、マドンナが第一声を発したとき、静まり返っていた広場の人々の中から、シナリオには書かれていない本物の大歓声が沸き上がった。

それを耳にしたマドンナは立ち尽くし、思わず声を詰まらせたという。「Don’t Cry for Me Argentina」が伝説となったのは、アルゼンチンの人々を含め、その場に居合わせた人々の思いが一つになった一瞬をとらえているからだと言われている。

女の敵


アメリカのフェミニストたちから、ポルノグラフィーを肯定するマドンナは女の敵と言われたが、アメリカの社会学者カミール・パーリアはニューヨーク・タイムズにこう書いた。

「マドンナこそ真のフェミニストだ。これまでアメリカのフェミニズムは禁欲的で厳格なイデオロギーに縛られ、大人げなく、すぐにめそめそ泣くばかりだったが、マドンナはそんな青臭さを笑い飛ばした。マドンナは若い女性たちに女らしくセクシーでありながら、自分の生き方をコントロールできることを教えたのだ」

「アメリカの下町の通りから飛び出してきたような押しの強さと、派手なスタイルで輝いていた。それは黒人、ヒスパニック、それに彼女が育ったイタリア系家系から生まれてきたものだ」


*参考文献 
『セックス・アート・アメリカンカルチャー』(カミール・パーリア著/河出書房新社)
『マドンナ語録』(ブルース・インターアクションズ)
『コンプリート マドンナ』(J・ランディ・タラボ・レボツリ/翻訳・吉澤康子/祥伝社)

(このコラムは2014年4月29日に公開されたものです)






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