街の歌

横須賀ストーリー〜“百恵伝説”はここから始まった!16才の少女の人生を変えた歌〜

2016.03.20

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この「横須賀ストーリー」は、1976年6月にリリースされた山口百恵の13枚目のシングル曲だ。
前年に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をヒットさせたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童(作曲)、そして彼の妻としても知られている阿木燿子(作詞)の手によって作られた作品である。
売上81万枚を記録し、オリコン集計では百恵の最大ヒットシングルとなった。
(※累計では『いい日旅立ち』が本作の売上を上回っている)
この横須賀の街を舞台とした名曲には、特別な誕生秘話があるという。


──すべては一本の電話から始まった。
それは、16歳のアイドル歌手山口百恵に曲を書いて欲しいという依頼だった。
ロックバンドのリーダー宇崎にとって、百恵は遥か遠くにいた少女だった。
当時のことを宇崎はこう回想する。

「その頃僕は27歳くらいでしたから、16〜17歳なんてね…凄い遠い存在だったから、子供が歌ってるんだなぁとしか思ってなかったですね。」

ロックミュージシャンとアイドル、当時は結びつくはずもない間柄だった。
この時、百恵はデビュー3年目。
オーディション番組『スター誕生!』(日本 テレビ系)から歌謡界にデビューした森昌子、桜田淳子、山口百恵の3人の中学三年生(1973年)は“花の中三トリオ”と呼ばれ、アイドルとして人気絶頂の時期を迎えていた。

当時、不良キャラで売っていた宇崎にどうして曲の依頼が来たのだろう?
違う世界で生きていた二人を結んだのは、一枚のレコードだった。
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドが1976年に発表したシングル「涙のシークレット・ラヴ」は、宇崎作曲のスローバラードだった。


人に言えない恋の切なさ…宇崎が静かに歌いあげるラブソングを、16歳の百恵はくり返しくり返し聴いていたという。
「宇崎さんに曲を書いて欲しい…」
アイドルだった百恵が恐る恐る口にした時、周囲のスタッフは「イメージが違い過ぎる!」と、まともに取り合わなかったという。
二人の橋渡しをしたのは、音楽プロデューサーの酒井政利だった。

「これは“異色”と言ったって“異色過ぎる”と、二人を引き合わせようとした僕も関係者から猛反対を受けましたね。」

「なんで俺なんだ?」そう戸惑いながらも百恵の申し出を受け入れた宇崎は、初めて真剣に百恵の歌声を聴きなおしたという。

「それまで彼女が歌っていた曲の中には、彼女の実像に近い歌がなかったんですよ。そういう曲がアルバムの中に一曲くらい入っててもいいかなぁと勝手に僕が発想して…それで阿木燿子と相談しながら作曲に取りかかったんですよ。」

奇しくも、阿木と百恵には同じ横須賀育ちという共通点があった。
その街のことなら3人とも知り尽くしていた。
まず、宇崎と阿木は“アイドル山口百恵”のイメージを壊すことを目指したという。


──神奈川県横須賀市。
米軍キャンプがあり、小学生の百恵が母を助けるために新聞配達をしていた街。
この街で百恵は小学二年から中学時代の約7年間を過ごした。
坂を上れば海が見え…阿木が書いた歌の言葉は、百恵が記憶している風景そのままだった。

これっきり これっきり もうこれっきりですか
これっきり これっきり もうこれっきりですか

街の灯りが映し出す
あなたの中の見知らぬ人
私は少し遅れながら
あなたの後 歩いていました

これっきり これっきり もうこれっきりですか
これっきり これっきり もうこれっきりですか

急な坂道 駆けのぼったら
今も海が見えるでしょうか
ここは横須賀


先に出来上がったのは歌詞の方だった。
そしてその歌詞に宇崎がメロディーを乗せるのに、15分もかからなかったという。

「歌詞を見た瞬間にもうメロディーが浮かんでるんですよね。だから歌詞の上に音譜が書いてあったようなものなんですよ。」

それは山口百恵が1976年に発売した8枚目のスタジオアルバム『17才のテーマ』のために宇崎が依頼された数曲のうちの一つだった。
だが、出来上がったアルバムにその曲は収録されていなかった。

「やっぱりそういうのはアイドルにはダメだったのかなぁ感じながら“外された”と、もしくは“お蔵入りにされた”と思っていたんですよ(笑)」


それから約一ヶ月後、宇崎は「横須賀ストーリー」がシングル盤として発売するという知らせを聞いてビックリしたという。

一緒にいても心だけ
ひとり勝手に 旅立つ人
私はいつも置いてきぼり
あなたに今日は聞きたいのです

これっきり これっきり もうこれっきりですか
これっきり これっきり もうこれっきりですか

そう言いながら 今日も私は
波のように抱かれるのでしょう
ここは横須賀


──それは、一人の少女がアイドルと決別した瞬間だった。
決して易しくはないメロディー、まるで短編小説のような歌の言葉…世間は驚きと共に「これが本当に十代の少女なのか?」と耳を疑った。
以降、まるで堰(せき)を切ったように宇崎と阿木のコンビによる作品が百恵の歌手人生にヒットをもたらすこととなる。

横須賀ストーリー(1976年)
夢先案内人(1977年)
イミテイション・ゴールド(1977年)
乙女座 宮(1978年)
プレイバックPart2(1978年)
絶体絶命(1978年)
美・サイレント(1979年)
しなやかに歌って(1979年)
ロックンロール・ウィドウ(1980年)
さよならの向う側(1980年)

などなど。


1980年10月、21歳の若さで引退した百恵は、一貫して芸能界とは距離を置いており…35年が経った今でも原則メディア出演はしていない。
そんな彼女が作詞家として活動していた時のペンネームが“横須賀恵(よこすかけい)”だったという。
「横須賀ストーリー」から始まった“百恵伝説”は、日本の歌謡史において永遠に語り継がれる物語(ストーリー)となった。

山口百恵『GOLDEN☆BEST 山口百恵 コンプリート・シングルコレクション』

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(2009/ソニー・ミュージックダイレクト)

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