1974年12月10日に発売された「冬の色」は、初めてオリコンのシングルチャートで1位を獲得するヒットを記録した。そしていつも以上に長い期間にわたって、シングル・レコードが売れ続けていく。
そして「冬の色」がヒットチャートを駆け上っていくのと同じタイミングで、初の主演映画となった『伊豆の踊子』が年末から年始にかけて、東宝系の劇場で公開になった。
その両方がともに予想外のヒットに結びついていったのだが、そこには山口百恵が持っている強運が味方してくれたのかもしれない。
そもそも『伊豆の踊子』は11月23日公開の予定になっていたもので、ホリプロ製作による低予算作品であった。
そのために山口百恵に与えられた撮影の日数は、わずかに1週間というタイトなものになってしまった。
映画全体でも3週間足らずで作られた『伊豆の踊子』は、小規模なプログラムピクチャーだった。
したがって二本立て上映における添えものといえば言い過ぎだが、メインではない一本を担う作品のはずだった。
それなのにどうして各社の大作が公開されてしのぎを削る正月に、堂々と上映されることになったのだろうか。
それについては当時のホリプロ社長だった堀威夫が回想録のなかで、「棚からぼたもち」という言葉を持ち出して、思いも寄らない幸運に恵まれたことを明らかにしていた。
東宝の正月映画は小松左京原作の SF大作『エスパイ』が早くから決定していた。
ところが予定していた併映作品が、何かの都合で飛んでしまったのだ。
そこで急遽『伊豆の踊り子』を上映したいと、東宝のほうから申し入れがあったという。
映画興行の世界で正月に封切られる作品というのは、よほど実績がある俳優たちの作品か、かなりの大作に限られていた。
まさに棚からぼたもちの出来事だった。その意味では私もさることながら、百恵も非常に強運の星を背負っていたのかもしれない。
(堀威夫著「ホリプロとともに30年 いつだって青春」東洋経済新報社124ページ)
公募で採用した相手役の三浦友和はその年の夏からテレビのCMで共演していたとはいっても、ほとんど無名に近い新人であった。
しかも山口百恵にとっても映画は初の主演だったのだから、なんの実績のない二人による動員力は未知数だったはずだ。
ところがこのときは二人の清新なイメージが注目されて、一般の観客にはプラスに作用した可能性が高い。
ここでも山口百恵の強運が働いていたのかもしれない。
全国の東宝系劇場で12月28日に一斉公開された『エスパイ』との2本立は、全国各地の劇場からかなり観客動員がいいと報告が入った。しかも観客の反応はメインだった『エスパイ』をしのいで、『伊豆の踊り子』のほうがいいとわかったのだ。
現場からあがってきたそうした報告が意味していたのは、必ずしも山口百恵を目当てに映画館に足を運んだわけではない人たちが、『伊豆の踊り子』を観終わってから好感を抱いたという事実だった。
歌の世界では「青い果実」や「ひと夏の経験」がキワモノ路線だとして、良識ある大人から眉をひそめられていた山口百恵だったが、実は男女を問わず多くの若者から、潜在的に好感を持たれていたのだ。
それが映画の反応によって、新たな層にまでその支持が広がったことが明らかになった。
川端文学のヒロインを演じた清純なイメージと相まって、山口百恵はここで俳優としての存在感を確立した。
やがて将来の伴侶となるパートナーの三浦友和と組んだゴールデン・コンビも、幸先の良いスタートを切ることができたのである。
そして回を重ねることで人気が増して、二人はコンビであるがゆえに、映画館での集客力へとつながっていった。
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