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アレサ・フランクリンの少女時代〜大好きだった母親の死、偉大な父親の存在、十代で経験した出産

2019.06.16

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「フランクリン家の居間にはグランドピアノがあって、幼いアレサが弾く姿を見て打ちのめされたよ。まだ7歳だというのに複雑なコードを押さえて、節まわしが難しいサラ・ヴォーンの曲などをごく自然に歌うんだ。驚いたね!まさに神童だったよ!」(スモーキー・ロビンソン)


1942年3月25日、彼女はメンフィスにあるルーシーアヴェニュー406番地で生まれた。
父C・L・フランクリンは高名な牧師であり「百万ドルの声」と評されるほどの歌手でもあった。
母のバーバラ・シガーズ・フランクリンも、優れたピアニストでありゴスペル歌手だった。
才能が豊かな両親のもとで育った彼女は、幼い頃から音楽に慣れ親しんで育つこととなる。
1946年の夏、彼女が4歳の時に一家はデトロイトに移り住む。
その2年後、母のバーバラは息子だけを連れて家を出てゆく。
アレサ本人(当時6歳)は記憶が曖昧だというが、彼女の姉(当時10歳)がその時のことを鮮明に憶えていた。

「みんな打ちひしがれていました。母は並外れた女性で、美しく聡明だったわ。その歌声はまるで天使みたいだった。ピアノも歌も素晴らしくて…看護助手として働いていたわ。父は教会からいいお給料をもらっていたみたいだったけど、母はきっと自立したいと思っていたんだと思う。本当のところはわからないけど、父はすぐにカッとなる性格だったし、両親の関係はいつも嵐のように荒れていたわ。」


彼女の妹キャロリン(当時4歳)にもこんな記憶が残っているという。

「母が出て行ったことで一番ショックを受けていたのはアレサでした。彼女が何日間も目が腫れるほど泣いていたのを憶えています。両親の別居後も、母に会いに行ける時は誰よりもその日を楽しみしていて、何日も前から小さなカバンをいっぱいにして出掛ける準備をしていたわ。アレサは母のような看護助手になりたいという夢も持っていたわ。」


母バーバラは、娘たちと面会するために定期的にデトロイトに戻っており、娘たちも夏休みに母の住むニューヨーク州北西部にあるバッファローを訪れて泊まったりしていたという。母バーバラは、1952年3月7日にバッファローで心臓発作を起こして34歳の若さで亡くなってしまう。
自分には理解できない理由で母親に出て行かれたこと、そして死…当時10歳だった彼女は心に傷を抱えた子供となった。
母の死後、何週間も一言も喋れない状態が続いたという。
彼女は自分の殻の中に閉じこもり、しばらくの間は出てこなかった。
しかしその後、彼女を殻の外に連れ出したものがあった。
それは音楽だった。
音楽がなければ彼女の魂は救われなかったという。


父のC・L・フランクリンは、ニュー・ベセル・バプテスト教会(the New Bethel Baptist Church)の主任牧師に就任し、1940年代後半から1950年代にかけて牧師としての名声を高めてゆく。
C・Lと言えば、後にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの親友としても知られ、偉大なゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンやクララ・ウォードとも親密な関係だったという。
ニュー・ベセル教会における務めの傍ら、全米各地で説教を行なうようになった彼は、説教をレコードに残した最も初期の説教者の一人となり、1970年代までその活動は続いてゆく。
彼女は、父が行っていたアメリカ各地を回る巡業に10代の頃から同行するようになる。
その後、彼女は12歳の若さで妊娠し、第1子(長男)を出産する。
10歳で母を亡くし、父親と過ごす時間が長かったため当時は「赤ちゃんの父親は、実父のCL・フランクリンではないか?」という憶測が流れたこともあったという。
実際は、自宅近所に住んでいた少年が赤ちゃんの父親だったということが判明している。
彼女はその後、15歳のときにも別の相手との間に第2子(次男)を出産する。
10代の若さで2人の子供を育てる未婚の母となった彼女は、幾多の苦難を乗り越えながら“クイーン・オブ・ソウル”への道を辿ってゆく…



<引用元・参考文献「アレサ・フランクリン リスペクト」デイヴィッド・リッツ(著)新井 崇嗣(翻訳)/シンコー・ミュージック>

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